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2009年2月

生活のリズム

最近は稽古から帰宅するとすぐ倒れて寝ちゃうことが多い。

床とかソファとかありとあらゆるところで。

眠るつもりじゃなくて、結果的にそうなっているので

非常に不本意な姿勢で目が覚める。

「テレビを観るつもりだったけどリモコンに手が届かなかったんだな」とか

「仕事をするつもりだったけれど、パソコンまで辿りつけなかったみたいだ」とか

「お風呂に入ろうとして、着替えを用意したところで睡魔に負けたらしい」とか

起きたときの体勢から読み取れる。

記憶にはまったく残っていない分、始末が悪い。

床暖房が入っているため、地べたで寝ても風邪をひくということはまずないが、低音火傷には気をつけたいものだ。

そして夜明け頃、目が覚める。

そしてとりあえず仕事。

ここ数日、そういうパターンで生活が落ち着いている。

いや、落ち着いちゃダメなんだけどね。

本当は、規則正しく生活したいよ。

でも、昼間も眠くなるし、台本はある程度のペースで書かなくちゃいけないし、打ち合わせ行かなくちゃだし。

体調悪くないから、いいのかなあ。

この状態でとりあえずベストを尽くすしかない。

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ふかすぎる ねむり

一日、部屋にこもって台本書き。

と言っても、昼間は昼寝を数回してしまった。

とにかく眠過ぎる。

しかも眠りが深過ぎて、もはや昼寝のレベルではない気がする。本格的。

夢も見ないしねえ。

昏睡に近いです。

今まで経験したことのないような深い深い眠り。意識の湖の底まで落ちてゆくような。

まあ~、とりあえず、今日のノルマは達成したのでよいことにしましょう。

だけどねえ。

明日もあさっても外出とかいろいろ重なってるから、本当はもっともっと書き進めなくちゃいけないんだけど。

困ったねえ。

でも、頑張ってもやっぱり2.5話分くらいなあ。3話は無理かも。

先週の空白の3日間が悔やまれるです。

今週中になんとかしなければなりません。

できれば昼寝とかしたくないんだけどなあ。普通じゃない睡魔だからなあ。今はコーヒーもあんまり飲めないし。困った困った。

根気よく、頑張るしかないかなあ。

つねに心身の状態を安定させるよう努めよう。

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変な蕎麦屋

久しぶりに落ち着いた環境の中で台本書き。

お昼は家人が持ってきてくれた炊き込みご飯などを食べる。

美味しいよう。幸せ。

できれば昼寝がしたかったが、先週から身体が無限大にダルイので、寝込んだらもう二度とパソコンの前に戻ってこられないような気がする。

締め切りに遅れる、というほどでもないが、予定よりは大幅に遅れている。

先週の水曜日~金曜日、心身ともに最悪の状況を迎えていたので、まったく仕事が出来なかったからだ。

遅れを取り戻すべく、今日は一日、とにかく頑張った。

何だか最近根気に欠けている。

一話の半分くらい書くと、もう、席を蹴って逃げ出したくなる。

というか、ゲームの台本ってやっぱり飽きるかも。

ゲームする側になれば、きっと飽きないんだろうけれど。

枝分かれしている部分を細かく埋めてゆく作業は結構しんどい。

一つだけ結論を選んで書いてゆくならスピード感が味わえる。

でも枝分かれをそれぞれ追ってゆくと……書いている側としてはデジャビュを何度も起こしてる感じで・・・・・飽き飽きしてくる。

コラ。

仕事なんだから、つべこべ言わずにやれ。

う~。はい・・・・・・。

夜、友人と蕎麦屋へ行く。

ギャラリーとカフェと蕎麦屋が合体した、すごく変な店。

席についても落ち着かなくて、どれか一つに絞ってくれ!と叫びだしたくなった。

でも蕎麦は美味しかった。

その後、ちょっと散歩して、ミスタードーナッツでお茶。

どうでもいいことをダラダラ話した。

安らいで幸せな気分になった。

甘えたりほっとしたりできる、って重要なんだなあ、と改めて思った。

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復活の日

つらい数日間が過ぎて待ちに待った土曜日がやってきた。

体調はあまりよくないが、気分がいいと不思議なほど仕事もはかどるし笑顔も多くなる。

去年の暮れから傷つき怯え、苦しんできたが、それももうおしまい。

これからは静かな穏やかな日々が続くだろう。

しかし、「論理」や「前提」や「仮定」を使わずに会話できないってのはつらい・・・・・・ね。

その場のその場の短い会話のサイクルでそのつど言い負かしたい、という気持が強い人と話すのは苦手。

話のテーマの結論や目標にたどり着けないからだ。

何のために話をしているのか分からない。

たどり着くための話し合いなのに、無意味に攻撃的な言葉を投げかけられるので、結局疲れて傷ついて終わってしまう。

傷ついて、心が冷え切ってしまう前に、何も言わずに立ち去ろう。

そのためのエネルギーがまだ自分に残っているうちに。

夕方、夕飯のための野菜スープを作った。

ワークショップから帰ってきたらすぐに食べられるようにしておこう。

まともに料理するのはあの日以来かもしれない、と気付いた。

自分の作ったサンドイッチを人から悪意を持って投げ返されたあの日。

善意で作った食べ物が、怒りの表現と結びつくなんて、思いもよらなかった。

そういえば、あれから三週間、食欲自体無くなっていたかもしれない。

少しずつ、また何か作って食べられるようになろう。

午後、古い友人と電話で話した。

たいそう久しぶりだったが、ほっとして涙が出そうになった。

不況の中、仕事が大変な状況を迎えているらしい。

これまで支えられてばかりだったけれど、これからは私も彼を支えなくては。

そのためにもまずは自分がしっかりしなくちゃなあ。

今度、ご飯食べよう、と約束して電話を切った。

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れいてつ

最近、自分が「冷徹」になった気がする。

ちょっとやそっとのことでは動じないようになった。

今は価値基準や優先順位がものすごくはっきりしている。

ちょっと前までぶれぶれだったのに。

たぶん、置かれている状況に合わせて人間は変化するのだ。

強くなった、といろんな人から言われる。

強いか弱いか、それは分からないけれど、自分に新しい感覚が目覚めたのを感じる。

感情でも理性でもない、何か。

もっと動物的な感覚だ。その感覚が、私を冷徹にさせている気がする。嗅覚?第六感?

自分の心と身体の安全を脅かす何かを察知するための、感覚。

その脅かす何かと闘うための、勇気。

厳しい状況の割にはのほほんと幸せな気分でいるけれど、「容赦しない」という気持がどこかに眠っている。

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選択

自分の選択に後悔はないし満足しているが、ある一面だけ取り出してみると窮地に陥っていることは確かだ。

しかしこうなってみて初めて、信頼できる人が周りにたくさんいることに気が付いた。

甘えっぱなしになるわけにもゆかないが、今はいろんな意味で無理できない時期なので

頼らせてもらっている。特に精神的に。

気持さえしっかりしていれば、何でも乗り越えられる。

目の前にある仕事を精一杯やって、しっかり生活する。

義理と仁義は守ること。

自分の体調と心を守るため、何事にも慎重に。

不当な要求や非常識な考え、ネガティブな意見、言葉の暴力、には耳を貸さないこと。

冷静に何が必要なのか考えて、行動すること。

不恰好でもたくましく、筋を通して生きよう。

最近、出身高校で稽古を見る機会があった。

指導をお願いします、と言われたが、顧問と副顧問の先生が三人もいる中でそんなおこがましいこともできない。

しかし、アドバイスのようなもの、はいくつかさせてもらった。

みんな偉いなあ。リハーサルの準備なんかもお互い元気に声を掛け合って、テキパキやっている。

元気がよくて、頭の良い、女の子たち。自分の意見を照れながらも言葉にできるところがすごい。

私が話し始めると、最初は緊張していたけれど、冗談で笑わせたりしていたら、だんだん気持がほぐれてきたのか、いい顔になってきた。

楽しいひとときを過ごした。

時間があったらまた行きたいなあ、と思う。

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恋/物語/死んでゆく過程

今やっている仕事のせいで、恋愛について考えをめぐらせることが多い。

人が人を好きになる、というメカニズムについて。

人が人を好きになる、ということが現実世界だといつも神秘化されるのは何故だろう。

「偶然」とか、「なんで好きになったのか分からない」とか、「運命の導き」とか。

けれど、実は、「好きになる過程」にはある程度物語のような筋道、論理のようなものが存在している。

紆余曲折や、ひらめき、霊感、突然の出来事、などなどがあるにせよ、それらはすべてプログラムされた山と谷なのだ。あくまでも好きになる過程においては。

逆かもしれない。

人は好きになりながら、物語を紡ぐのだ。そうでないと、もっと好きになれないからだ。紡いでゆくことさえできれば、もっと恋することができるのだ。もっと深く愛することができるからだ。

だから愛を深める過程においては、人々は物語を必死に紡ぐのだ。

だが……。

おそらく、「愛が死んでゆく過程」には論理は存在しない。

恋も愛も、突然死ぬのだ。突然色褪せるのだ。

その時、人々はもはや物語を紡ごうとはしない。

嫌いになるきっかけはどれも、不条理なことばかり。

出来事と出来事の間には連続性も整合性もないことが多い。

パターン化できない分、人によって千差万別で、物語にしてみたらこちらのほうがよほど面白いが、当事者には紡ぐだけの余裕がない。

愛が成就しないのと

愛が色褪せてだいなしになるのと

どちらが悲しみが深いかと言われれば

私は圧倒的に後者。

だってねえ。

思いが成就しないってことは、慣性の法則に従えば摩擦抵抗のない場所の場合、ずうっと進み続けてるわけだし。進んでる方角が「あらぬ方向」だったとしてもね。

だから失なうってこととはちょっと違う。

だからあんまり悲しくない。

だけど、だいなしになったものは、もう、元には戻らない。

だから、とっても悲しい。

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言葉の刻印

一度聞いてしまった言葉。

耳の穴から引きずり出してなかったことにする、そんなことできない。

刻み込まれた記憶を削ってなかったことにする、それもできない。

何気ない一言かもしれない。

あるいは本心ではなく、気持を試すために発せられた言葉かもしれない。

あるいはあとで「嘘でした、チャンチャン」という一言がつけ加えられたり、

「実は誤解がある言い方をしてしまったけれど」という注釈がつく、

かもしれない。

しかし、確実に言葉は記憶の上に、「新しい情報」として積み重なってゆく。

何かの薬を飲んでいて、記憶障害を起こしている時でもなければ、記憶に刻印を残さず会話することなど不可能だ。

私に関して言えば、記憶が、気持の素地を作る、と思う。

そして、一度気持が決まると、変わらないタイプの人間だ。

一言のセリフで人生が変わる、ということもある。

一度やったら取り返しのつかないこともある。

人殺し。レイプ。暴力。

そして、言葉の暴力。

言葉はナイフと同じ。

一方では人を生かすための道具。それは食物や新たな道具や芸術作品を作り出す。

一方では人を傷つけるための道具。自分や他人を痛めつけたり殺すための・・・・・・。

それを使って日銭を稼いでいるからということもあるけれど、

言葉を人を傷つけるために使いたくない。

常に、そう思っている。

そうするとしたら、自分の身に危険が迫っている時だけ。

ボクサーが、日常生活の喧嘩でパンチを決して繰り出さないように、

私も、言葉を攻撃するための道具にしてはならないのだ。

この仕事を続ける限り。

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たけのこ あみやき

今日もまだ構成が届かないのでノンビリだらだらと過ごす。

夜、制作でお世話になっているO氏が関わっている劇団の公演を観に行く。

この界隈に足を踏み入れるのはたいへん気が進まないが、仕方ない。

芝居はかなり押して始まった。10分以上押したように思う。

冬はトイレが近いので、開演が押したりすると、ああ、もう一度トイレに行かせてもらえばよかったと激しく後悔する。

芝居は落ち着いた感じに仕上がっていた。

客席にはあるスタッフの方がいらしていた。彼の仕事ぶりについては知っているがなにせ初対面なのでO氏に紹介してもらった。丁寧で穏やかな方だったのでほっとする。彼には次回公演で関わってもらおうと思っている。

親しい人も近隣の劇場で芝居を観ているとのこと。マクドナルドで待ち合わせをして、ご飯を食べに行った。

互いに今観てきた作品の感想を語りあう。

と言っても私はその人の観た芝居についてまったくイメージができない。うーん。私も一方的に喋りたいことを喋るけど、たぶんちゃんと伝わってないんだろうな。

感想だけ聞いてどんな芝居だったか、想像するのってむつかしい。

たけのこを網焼きしたのが、とにかく大変美味しかった。

たけのこの甘みって、トウモロコシの甘みに通じるところがあるよね、というところで

私もその人も、今日初めて意見が一致した。

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おんな どうし

最近稽古に行くのが楽しみだ。

家では台本ばかり書いていて、最低限の筋トレ以外には身体を動かさない。

稽古場では時々冗談を言ったりしながらだから長時間楽しくやっていられる。

その後は台本。昨日の練習では別役実をいくつか読んだ。

メンバーはほぼ「別役実未体験人間」なのだが、思ったとおり、すごく気に入ったようだ。やっぱりね。

こういうユーモア感覚とか知的な遊び感覚だったり、実は底辺に流れているセンチメンタリズムだったりが、うちの女優たちにはフィットするのではないかと、前から考えていたのだ。

私が彼の作品に意識して親しむようになったのは、7年くらい前に「かたつむりの会」の村井さんに、別役実と世界観が重なる部分がある、と指摘されて以来。

私とはくらべものにならないくらい、厳しい、研ぎ澄まされた感覚で描かれているが、底辺に流れる切なさは共通するものがあるかもしれない。

昨夜は稽古の後、ご近所の女優さんと一緒に夕飯を食べ、お茶。

日常の瑣末な出来事を私が語ったところ、突然、彼女がポンと膝を叩き「それはダメだ」と吐き捨てるように言った。

そして「それはダメですよ。それは決して些細なことじゃない」と、もう一度念を押すように言った。

女どうしが強く共感しあうのは、決まってこういう、日常の小さな小さな問題に対してである。何故なんだろうね。

彼女と別れてすぐ、倒れるようにして眠った。久しぶりに熟睡できた。

そういえば夢を見た。夢の中でも、私は結構、筋の通ったことを言っていた。夢の中でくらいズルしちゃえばいいのに、と思わないでもない。

朝目を覚ましてさっそくメールをチェック。まだ次の台本の構成は来ていない。やった~。

チーズトーストにミルクティー。ノンビリ過ごす。

お昼には鳥肉のローストとキャベツの和え物を作った。柚子果汁と柚子皮をたっぷり使って。この前は白菜で作ったが、キャベツでも美味しい。こっちは春っぽい感じだ。

ちょっと時間は掛かったが、満足満足。

午後は打ち合わせ2件、夜は稽古。

考えてみると、午前中ノンビリ過ごしておいてよかったなあ。

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明け方 動悸が激しくなって

明け方、動悸が激しくなって目が覚めた。

部屋の中に人が勝手に入ってきた気がして、思わずまわらぬ口で「誰?」と叫んでいた。

夢に登場したその人は顔がない。

その人は理不尽に私の時間と空間に入りこみ、支配しようとする。私は自分を守ろうと決心する。

私はお湯(小さな洗面器にお湯が入っている)をその人にかけようとする。それはたぶん顔を洗うためのものだからあまり熱くないのだが、私の武器はそれしかない。私は素早くそれをかけようとするが、直前に怖くなって、違う方向にかけてしまう。

するとたまたまその場にいた見知らぬ人たちにお湯がかかってしまった。

必死に謝る私。

「あんたも最近の人なんだねえ」と近くにいたおばさんが声を掛けてきた。「あんたもキレたんだね」というの意味だろうか、と夢の中の私は解釈する。

その後の展開はよく分からない。おばさんたちと別れた私は泣きながらその人に何か訴えた。恐怖と怒りを感じた。

最後は寝ていたら部屋に侵入されたので叫び声をあげ、目が覚めた。

動悸が激しくなって夜明けに目が覚めるなんて、欝になってしまったのかもしれない。

今の時期、病気は困る。

大丈夫、もう安心だよ。安心な所にいて、怖いことは何もない。そう自分に言い聞かせる。

怯えて、かじかんでしまった心を元に戻すにはどうしたらいいのだろう。

しもやけと一緒で、一度そうなったら、すぐには戻らないのかな。

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はんにち おふ

朝から気合を入れてやったら正午きっかりに仕事があがった。膨大な量の台本の直しと仕上げ。

それにしてもこんなに早く上がるとは思ってなかったよ。すごい量だったのにね。気合のチカラってすごい。こんなんだったら、いつも気合入れればいいのになー。

ああでも、量をこなすには気合より環境かな。やっぱり集中できるような環境があってこそ。静かで安全で落ち着ける場所ならどこでもいいけど、なかなかそういう場所ってないものね。

先方から連絡があるまではこっちの仕事のほうはオフだから、半日くらいはダラダラ過ごせる。

お風呂に入ったり、テレビを見たり。

あ、いけない。別件の仕事で打ち合わせあるんだっけ。ということで外出。

意外にもすぐに終わった。トンボ帰りしてまたくつろぎタイム。

掃除に洗濯なんかもやる。

夕方友人から電話があり、お茶へ。

お喋りしていたら、時間が瞬く間に過ぎ、夕飯の時間。パスタ屋へ向かう。

映画や、ドラマの話をしていたら、楽しくなってきた。しかも私はここのパスタ屋では一番美味しいのではないか、というメニューに出逢う。チキンのトマトソースは本当に美味しい。なぜ洋風のほうが美味しく作れるのに、和風を看板にしているのか、よく分からない。

帰宅してもまだ先方からは連絡が来ない。ひと眠り。

夜中目を覚ましてパソコンを開くと、メールが来ていた。担当の方はこんなに夜遅くまで仕事してるんだなあ。頭が下がる。今回はほとんど直しがない。よかった。

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あんぜんな ばしょ

一生忘れられないような出来事があった。

自分が好意で作った食べ物を投げ返されたのだ。

私の態度が気に入らないという理由で。

そのとき私は必要事項と事実しか、口にしていない。

要らなければ、不愉快で食べる気にならなければ、路上のゴミ箱にでも捨てればいい。

ふつう怒りを覚えただけならあずかり知らぬところで、そうするだろう。

わざわざ、私に向かって捨てるというのは、自分の悪意を私に知らしめるためなのだろうか。

夕方まで起き上がれなかった。何も感じない。水も食べ物も口にできない。

原稿の仕上げを行わなければいけない日にあたっていたが、一日何もできずに終わってしまった。

夜、仕事のため外出。

こんな何も感じない状態で・・・・・・という感じだったが、台本の参考になる映画なので、今観ておく必要がある。とにかく一生懸命に観た。

結局映画そのものよりも、後列に座っていた若者たちの会話のほうが参考になった。

感想大会がその場で始まったので、思わず聞き耳を立ててしまった。

彼らは私が映画を観て違和感を覚え、危惧したことを、まったく飛び越えて素直に感動していた。その問題点については若い人たちのほうが、気になると思ったのだが、そんなことはない。

案外私くらいの人間、つまり「非青春」な人たちのほうが気になってしまうのかも。

帰り道、ようやく涙が出てきた。映画を観たらようやく、感受性が戻ってきたらしい。

私は悲しかったのだ。つらかったのだ。それがやっと分かった。一緒にいる人が心配しておろおろしている。

ごめんなさい。大丈夫だよ。もう、自分が何を感じているか、分かったから。

泣いたらお腹が少し減ってきた。これなら何か食べられそう。その人とよく訪れる店に入り、坦坦麺を注文する。

その人の注文したチンジャオロースや、餃子などもちょっともらって食べる。

美味しい。坦坦麺はいつもより美味しく感じるくらい。もう味もちゃんと分かるし、大丈夫。

私は安全なところにいるんだ、という実感があった。

今は、悲しいことつらいこと怖いことから隔離された、守られた場所にいる。

帰宅してから、仕事を少しやった。

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しあわせは どこにでも ころがっている

すべてのことに現実感がなくなってしまう時がある。

思考停止、の状態とでも言おうか。

人に何かお願いしたり、要求したりする時には

考えた筋道と論拠を示さなければいけないと思って生きてきた。

決定事項や要求だけ伝えるのは傲慢だと、そう思ってきた。

説明が不十分だと言われることはあっても、

不要だと言われることはなかった。

しかし最近、それは「言い訳」であり、無理につじつまを合わせているだけで、聞いていて不愉快になる、と人に言われ、愕然とした。

どうやら、感情のままに素直に発言する、ということが大事らしい。

でも感情があまりない場合どうするのだろう。

日常の瑣末なことや、礼儀に関すること、大人として社会人としての意識に関することに対して、私はそういちいち感情が動かない。

それは私だけなのだろうか。

普通、忙しく余裕のない生活を送っていたら、好悪や快不快の感情が動くより、こうしたほうがよい、という理性がはたらく機会のほうが多いのではないか。

特に私のように気性が激しいものにとって、感情を頻繁に稼動することは負担以外のなにものでもない。

しかも、私は感情の起伏が大きいという自らの性質を利用して台本書きという職業についている。物語の世界ではずっと感情を働かせっぱなしなのである。もちろん理性も使ってはいるけれど、感情はそれこそフル稼働。

せめて現実世界では静かに理性で生活しないと、疲れて仕方がない。

そうでないと、頭がおかしくなってしまう。

生活はある程度、感情を使わなくても判断できることばかり。どう行動すればよいか、というのはある程度決まっている。文明社会に身を置く限りにおいては。

静かに生活していても、喜びはある。

ご飯が美味しく炊けただけでも、散歩中の見知らぬ犬と目が合っただけでも、幸せを感じる。

とりあえず、原稿が書き終わり、入稿を済ませた時。

電話をしようと思っていた相手から電話が掛かってきた時。

口元が嬉しさにほころぶ。

穏やかな気持であたりを見回せば幸せはどこにでも転がっている。

私にとって一番の課題は、その幸せを全部吹き飛ばしてしまうほどの、不快な出来事に出逢わないようにすることだ。

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るーる とか まなー とか 

人に何かしてもらったら、ありがとうとお礼を言い、

悪いことをしてしまったら、ごめんなさいと謝る。

それでいい、と、思う。

礼を言うのが面倒だから、何もしてもらわないようにする、とか

謝るのが嫌だから、相手の落ち度を主張する、のは、イヤ。

人って、関わりあって生きている。

だからどうしたって、

知らず知らずのうちに人の世話にはなってしまうし、迷惑も掛けてしまう。

人に迷惑を掛けるのはひょっとしたらわざとじゃない時のほうが多いかもしれない。

意識的にしろ無意識的にしろ結果的にはそうなるのだから、せめて、礼儀は守りたい。

例えば私は背が低いから、本屋などで棚の上のほうにあるものなどがなかなか取れなくて、手間取ることがある。はしごがない場合などは。見知らぬ人が取ってくれることもあるし、本を取り出した拍子に何冊かバラバラと取り落としてしまうこともある。

チビなのは私のせいじゃない(たぶん)けれど、「どうもありがとう」とか「すみません」が自然と口からついて出る。だって、わざとじゃなくても、私がその張本人だから。それが当たり前。

関わる人どうし、その最低限のルールみたいなものが守れないと、感性がどんどん乾いて失われてゆくような気がする。

特に喜びとか嬉しさとか、人を幸せにする感受性が。

ルールとかマナーって、人の心を縛るためのものばかりじゃなくて、お互いを自由に楽しくするためのものも、たくさんあるんじゃないか、そう思えてきた。

今まで意識したこともなかったけど、最近、このテーマについてよく考えさせられる。

神様が私に考えるチャンスをくれたのだと思いたい。

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