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2009年6月

さんぽ

都心で大事な用件があったが一人ではこころもとないので、友人につきあってもらう。

用件自体はとどこおりなく済んだ。

友人だけでなく、まったく初めてお会いする係員の方たちも含めて、親身に対応してくださる方ばかり。とても心強い。

とにかくどのような状況になっても、落ち着きを失わず冷静でいようと思う。

体調を保つためにも、まずは気持をしっかり持たなければ。

用事を済ませてから、日比谷公園に面したカフェのポーチでランチを取った。

スズメが隣のテーブルで食べ物をねだっている。

ちょっとずる賢い感じがユーモラスで、友人と一緒に笑った。

屋外なので、犬を連れた人も食事をしている。

犬は、飼い主にもらった氷を動物園の白熊のようにうっとりしてなめている。

きっと暑くてたまらないのだろう。

その後、彼女と少し散歩して、銀座から電車に乗って帰ってきた。

疲れが出たのか、午後はほとんど寝て過ごした。

夜から台本書きの仕事。

腰が痛くて、体操とトレーニングを、サボってしまった。

ダメだなあ。明日はやろう。

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ははこ

ここ数日台本書きは順調。

やっぱり一週間くらいはぶっ続けで書かないと、調子が出てこないのだと実感した。

ここ二日ばかり猫の母子が姿をあらわさないので心配で仕方ない。

どこに行ってしまったんだろう?

暑いので、どこか涼しいところに避難しているのだろうが、それは、どこ?

今夜は誕生日を祝ってもらった。

普段は会えないような人まで駆けつけてくれて嬉しかった。

毎日、家にこもって一人で仕事ばかりしているから、顔を見てお喋りできるだけで、大きな喜びを感じる。

ってこうして文字にしてみると、私ってかなり人恋しい生活を送っているみたいな感じ。

事実、まあ、そうなんだけど。

でもたぶん、普通の人よりは、一人ぽっちに耐えられるタイプだと思う。本とかテレビとか、観察する対象とかがあれば。

今年は、状況が状況なので、歳を取ったことに関して感傷的になったり、感慨を覚えたり、ショックを感じたりする余裕がない。

頭の中は、「体力を保とう」とか「仕事をもっと頑張ろう」とか当面の目標が浮んでくるばかりだ。

とりあえず当面の目標を達成できるように、日々努力するのだ。

帰宅する途中、母猫と子猫たちを発見。

よかった。無事だったのねえ。

元気に育ってね。お母さんにもずっと生きていて欲しい。

しばらくして、窓から空き地を見たら、背の高い女の人が立ち止まって、母子をじっと見つめていた。

母猫は前に出て、「これ以上、私の子どもたちに近付かないで」と静かに警告を送っている。

女の人は、母猫を撫でたそうにしていたが、しばらくすると諦めて去っていった。

みんな、あなたたちを見ると、胸がキュッと締めつけられるような気分になるみたい。

だから優しくしたくなる。

何故だろう。

今は食べ物には特に困っていないようだ。

完全なノラではなく、半分飼い猫のような境遇なのかもしれない。

でも、何か必要なものがあれば、いつでも窓に向かって合図してくださいね。

いつでも、飛んでゆきますから。

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ははねこ

長いシマシマの尻尾をパタパタと動かし、茶のぶちをあやして、

後ろ足で白黒の相手、

前足で茶トラを押さえつけ、顔を舐めてやっている。

三匹の子猫のお母さんはいつも忙しい。

それにしてもすごいねえ。

どうやったら三つのことが同時にできるんだろう・・・・・・。

チビたちは母猫の気もしらずに、お母さんの尻尾にタックルしたり、物陰に隠れたかと思うと後ろ足に向けてジャンプしたり・・・・・・。

お母さんは微動だにしないで、一心不乱に茶トラを舐め続けている。

原稿を書きつつ、窓から空き地を時々眺める。

母猫と子猫をどうも近所の人全体が見守っているということが分かってきた。

みんな心配なのね・・・・・・。

そういえば母猫は食べ物に困っている様子がなかった。

こっそりみんなあげてる気がする。

これまでにも何度か出産をしてきたこの猫だが、だんだん老いてきたのが分かる。

それだけに、憐れだ。

この子たちを育てあげたら、死んでしまうかもしれない・・・・・・。

母猫の表情にはそんなことを思わせる儚さがあった。

だけど、あなたは幸せなのねえ。

あなたの顔を見ていれば分かりますよ。あなたは、いい人生だと思っているでしょう?

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かおみしり

真夜中、書き疲れて、ひと休みしていると、かすかに、鳴き声がした。

窓を開けて下をみると、暗がりに白っぽい毛のカタマリが三つ浮かび上がって見える。

大きいのが一つ。小さいのが、二つ。

下に降りてみると、毛のカタマリが、ちょっと逃げた。

母猫と、子猫2匹。と、思ったら、少し離れたところにもフワフワが一匹。

母猫とは顔見知り?である。

愛想が良かったり悪かったりする気分次第の女。可愛いけれど、ちょっと性悪。そんな猫。

耳と尻尾だけ、茶色で、ほかの部分は真っ白。

確か2年ほど前にも子猫を連れているのを見たから、また産んだということなのだろう。

今回は三匹も。ちゃんと育てられるのかな、と思ったら胸がキュッと痛くなった。

この母猫は、子猫がひとり立ちして一匹で行動している時には、私に敵対的で歯をむいたりするくせに、子猫がいる時には友好的なことが多い。

今夜もまるで私に子猫を見せに来たみたいな態度である。

「あたくしが産んだ子どもたちを見てもらえるかしら。すごいでしょ。可愛いでしょ」と言わんばかりに、私から少し離れたところに落ち着いた様子でデンと座っている。

どの子も健康そう。目やにも出ていないし、目鼻立ちは母に似て整っている。

子猫たちは片時もじっとしていられないらしい。母猫から離れて、飛び回っている。

一匹、少しトロい猫がいて、不安になった。母親がどこにいるか、すぐ分からなくなってしまうらしい。

母猫を疲れさせたくないので、すぐに、中に入った。

階上の窓から観察することにする。

母猫は、迷子になりやすい子猫を思い切り遊ばせよう考えたのか、私の家の向かいにある、見晴らしのいい広い空き地に連れて行った。

その空き地もまた私の家の窓から丸見えである。

母猫は空き地の真ん中に手足を投げ出して休み始めた。きっと子守で疲れていたのだろう。

しかし母親の思いとは裏腹に、子猫は何故か、危険なことばかりするのである。

道の真ん中まで出て行って寝転んだり(危ないよ!)、電信柱の陰に隠れているうちにお母さんの居場所が分からなくなったり、崩れかけた塀に登って降りられなくなったり・・・・・・。

そのたびに、母猫は、子猫に注意したり、助けてやったり・・・・・・。まったく気の休まる暇がない。

子猫たちがお馬鹿さん過ぎるので、一匹一匹捕まえて、ちょっとお説教してやりたい気分だ。

少しお母さんを休ませてあげてね。

何だか心配症になってしまう私なのだった。

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ぎむ より たのしみ

ストレスなのか何なのか、突然具合が悪くなり、午前中寝ていた。

まあ昨日入稿したから、そのくらいはサボってもいいでしょう。

午後から起き出して仕事をやりかけたが、家人が買い物に行こうというので、少し遠出した。

朝から牛乳コップ1杯とレーズンを10粒くらいしか食べていないので、フラフラする。

帰宅してから、食べながら仕事。

幸せって何だろう、と思う。

何か一つ仕事をやる時でも「しなければならないから」とか「やるべきだから」とか「やるのが当たり前だから」「やらないと困るから」という

義務感とか責任感が前に出るとひどくつまらない。

それって、どうも他人の視線を意識してるものだから。

義務感とか責任感が大切だという考えには異論ないんだけれど、

仕事に限らず、何かを貫徹してやり遂げるには、喜びと楽しみが必要なんじゃないかなあ。

それは誰に強制されるものでもない。自分の内から湧き出てくるエネルギーそのものだから。

おそらく私自身が幼い頃から

「楽しみ」を重視しない、どちらかといえばそれに罪悪感を持つような価値観の中で育ったので

余計に、このようなことを意識するのだと思う。

「幸せ」になるために、小さな出来事に対しても喜びと楽しみを見出せるようになりたい。

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いみ を たしかめる

時々、理解できないことを確かめようとしただけで、

人を傷つけてしまうことがある。

「馬鹿にするな」という言葉を投げつけられることもある。

でも、分からないことが目の前にあるのに確かめようとしないのは、卑怯で臆病な気もする。

一つ一つ、質問して、分かろうとする努力が大切、そう信じてきた。

どっちなんだろう?

疑問を感じたら確かめたほうがいいのか、それとも、見なかったことにして、流せばいいのか。

よく分からなくなった。

人には、訊かれたくないこともある。

そのような場合、どんなに丁寧に質問しても、責めている、と捉えられてしまう。

しかし、例えばそのセリフがいくつかの状況で何度もリフレインされたりすると、

やはり、意味も分からないまま、聞き流してはいけない事柄なのかと思ってしまう。

だから、訊ねる。

しかし、それで相手が傷ついたりする。

「他人はあなたを素敵だと思っている」と伝える場合、そんなに深い意味はない。

たとえば

○相手をほめてあげたい。

○良い気分にさせてあげたい。

○実際にそのような根拠があり、情報を正確に表現したのみ。

などなど。

でも「他人はあなたを素敵じゃないと思っている」と繰り返し伝える場合はどうだろう。

ネガティブな言葉を人に伝える時、たいていは目的や意味があると思う。(反対にもしそれがないなら伝えるべきではないし、普通の人は言わない)

○自覚がなさそうなので、情報として知らせてあげよう。

○あえて伝えることで、世間の目に負けない精神力を鍛えてあげよう。

○思いあがっているようなのでちょっと鼻をへしおってやろう。

などなど。

単なる悪口として言われた言葉に関しては、意味を問いただす必要などないかもしれない。

でも、「悪口以外のネガティブなメッセージ」を受けとった場合、きちんと理解して、問題があれば解決したい。

逃げ出したくない。

なのに、やっぱり、確かめようとすると、傷つけてしまったりする。

困ったなあ、と思う。

卑怯者になるのはイヤだ。いつも、正面から向かい合いたいだけなのに。

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まどろんで まるくなって

朝から寝たり起きたりしながら、台本書き。

だんだんリズムに乗ってきた。よかった。ほっとした。

夕方から知人の芝居を観に行く。

とても難しい内容の台本だったが、うまく消化されて舞台になっていた。

こういう台本を書ける人にも感心するし、それを劇として飽きさせないで見せる演出力もすごいなあ、と思う。

たとえるなら……

数学の問題を図形で解こうとする人と数式で解こうとする人がいるけれど、

この人は後者なのかな、と思った。

論理にとても強く、語彙力が豊富。

台本を書くことに限って言えば、私はどちらかというと、前者タイプ。

こういう方法で書くことができない。それに、この手の台本を演出もできない。だから、見ていて「とてもとても」うらやましくなる。憧れる。

観劇の後、打ち合わせ。

今後の私の表現活動について、相談した。

私の願いは安心できる環境で作品を作る、それだけ。

それには信頼できる人のサポートが絶対に必要だ。

仕事に関して、何をよしとするか。何をいちばん嫌い、何をわずらわしいと思うか、私の価値観を伝えた。

特に、恐怖に関して。

仕事場で激情に駆られた行動やアンフェアな振る舞いを見ると、怖くなってしまう。

何故だか分からないけれど、萎縮してしまう。心が凍る。

あとからいくら謝られても、覆水盆にかえらず。許すということはできても、信頼は元に戻らない。

外側には出さないけれど、頭が真っ白になる。一時停止。

もちろんその後、頑張って思考システムを復旧させるのだが、一回停止する分、やはり、現場での思考の質や量が落ちる気がする。

最近、ずっと怖い思いをしてきているので、しばらく静かなところで安心して作品を作りたい。

そんなことを話した。

その人は静かに耳を傾けてくれた。

泉のそばに座ってまどろんでいるような、落ち着いた、自由な気分になった。

いつもこういう状態なら

丸くなって、うとうとと物語を考えていられるのに。

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シカタナイ の いちにち

昨日から寝たり起きたり、朝から晩まで断続的に台本書き。

う~。

だけど何かはかどらない。

指定されたのがちょっと苦手な長さなので、手間取っているのである。

おそらく二本目からは大丈夫だと思う。

ゲームの台本は形式に慣れるまでが割に大変なのだ。

気分がスッキリしなくてキャベツをやたらを食べる。

冷たくてさっぱりしてて、カリカリしたものが食べたくて仕方ない。

別にキャベツじゃなくてもいいけれど、他にカリカリしてそうなものが在庫としてないのである。

仕方ないのでキャベツを電子レンジで軽くチンしてカサを減らし、それを冷蔵庫で冷やしたものを、スナック代わりにカリカリ食べた。

今日は、日本VSオーストラリアの試合がある。

どうしても見たい。

ということで、今日はひたすら仕上げることだけを念頭に仕事。

打って打って打ちまくれ。

今までサボってダラダラと書いてたのがいけない。

とにかく、早く、早く。

中継が始まる19:00には間に合わなかったけれど、19:20には入稿完了。

う~右手首と背中が痛い……けんしょう炎が再発したかもしれない。

何とかテレビの前に座る。

ポテチを食べたいが、もはや買いに行く時間がない。アイスティーに鉄分補給用のレーズンで我慢する。

結果は……ああ……。

負け。もちろん日本が。ワールドカップのドイツ大会よりははるかに成長していると感じたけれど、やっぱり悔しいことには変わりない。

まあ、トゥーリオが活躍してくれたのは嬉しい。今夜はDFに中澤がいないのがキツかった。

とにかく負けは負け。こんなに仕事頑張ったのに。

っていうか、サッカー関係なく仕事は頑張れよって感じですね。はい。

それにさ、日本代表も頑張ったんだよ。精一杯。仕方ないんだよね。

今日はいろんなことが「シカタナイ」日でした。

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あと もう すこし

台本を書くペースが上がってきたせいか、夜眠れない。

これじゃあ、完全に昼夜逆転しちゃうよ。 

まいったなあ。

午後は勉強会へ。

これからに備えていろいろ新しく学ばなければならないことがあるのだ。

内容は興味深いのだが、夜眠れなかったせいで、眠たくて眠たくて、つい船を漕ぎそうになる。

うう~。

そのせいか、先生から何度もあてられてしまった。

隣の席には美しい人が座っていた。私って、自由に席を選ぶと必ず、無意識的にキレイな人の隣に座りたくなるみたいだ。

まあ、あくまでも私の好みなので、一般的に言う美女ってものとはちょっと違うかもしれないけれど。

帰り道、少しお喋りして、仲良くなった。とても優しい素朴な人だった。

その人の実家が私の家の近所だということが分かり、さらに親しみがわいた。

帰宅してポストを覗くと、例のものが届いていた。

気分が明るくなった。どういう方向に向かうにせよ、未来について一歩でも前進できるということが嬉しい。

現実から目をそむけ、投げやりになるのはイヤだ。

台本を書き始めてしばらくすると、雨音が激しくなってきた。

窓を閉めなければ。

だけど、あともう少し、もう少し書き進んだら……。

気付けばあたりは真っ暗になっている。

暗い部屋の中で、モニターと向かいあって言葉をつづり続けた。

揺れるカーテンの隙間から、雨粒が吹き込んでくる。

早く、窓を閉めなければ。

あと少し。あと、もう、少し。

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ひとやすみ の つもりが

午前中は台本のための調べもの。

午後から書こうと思ったがスーパーで買い物をしたら荷物のあまりの重さに具合が悪くなった。

結局、「ひとやすみ」のつもりが昼寝になってしまった。ああ。

夕方から書き始める。

最初から高望みしないで気楽に気楽に書き進めてゆくことにした。

面白いものを書こうとリキミ過ぎたらいかんですな。なんとな~く、流されながら書いてゆこう。

夜は外出。

友だちと夕飯を食べた。

彼は演出助手のHちゃんと少し似ている。年下だけれど対等につきあえる、そんな感じの人だ。

物腰や言い回しは常に柔らかいけれど、物の見方が鋭い。そんなところが、面白いし、頼りになる。

デザートを食べながら仕事や人間関係のことなどお喋り。

結局世代が違っていても、合う人とは合うし、合わない人とは合わない。

それだけのことかも。

帰ってきて、テレビをだらだら見る。

イ・ビョンホンの番組をやっていた。仕事の参考になるかと思って、最後まで見た。

好きかどうかと言われると困るけれど、役者として才能があるのは間違いないと思う。

達者というほど器用ではない。

だが、常に空気をまとっている。俳優として、なにより、大切なことだ。あとは表現が骨太。これも大事。

なんとなく、イ・ビョンホンって松田優作が好きだろうな、と思う。

何だか、演技のタイプが似てるような気がする。

気のせいか?

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これ と これ

知人のピアニストが、なんと午前中にコンサートを開くという。

少し遠いが、行ってみた。

演奏中にフラワーアレンジメントのパフォーマンスがあったりして、なかなか面白いコンサートだった。

挨拶を済ませて、帰宅。

今日は何だか腰が痛い。人込みを歩いたからだろうか?

気分も暗い。

時々、近親者から「自分で何でもやれ」とか「身の回りに起こることに対して責任を取れ」とか言われる。

いまだに。

昨日も言われた。ほとんど脈絡もなく。

私は責任逃れもしないし、人にめったに頼らない。

今は大変な時期だけれど、ひとりで何とか生きている。

それなのに、もっともっと自分ひとりで背負え、と言うのか。

何をしろというのだ。

私が頼りなくふにゃふにゃして見えるからだろうけれど、始終張り詰めて厳しい表情で生きてゆくなんてごめんだ。

皿洗いをしていたら突然涙がこみ上げてきた。

びっくりするほど大きな声で泣いた。

しばらく泣いていたら、疲れて眠くなった。少し寝る。

夕方から外出。

ギャラリーへ、絵本の展覧会を観に行く。

友人がそこに童話を出品しているのだ。

しばし時を過ごした後、一緒に夕飯を食べた。

ピザとパスタを二人で分け合って食べることになった。

友人は食べたいものをすぐに「これとこれ」と指でさしてみせる。

「どれでもいい」とは言わない。

そういうところがとても好きだ。

私はたいてい「どれでもいい」と言ってしまうし、実際そう思っている。そういう自分をつまらなく感じている。

友人はいつも自分が何を食べたいか、何をしたいか、分かっている。

そういう人の側にいると面白い。

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ことば の ずれ

最近、ファンタジーという言葉を嫌いになるような出来事が二つあった。

一つは「ファンタジーの作者を見るとガッカリする」と人に言われたこと。

それも芝居のお客さんに言われたのではなく、作り手に極めて近いポジションの人に言われたのである。

「自分の私生活を題材に書かれたという作品だということが分かると幻滅する」とも。

私本人は私小説的な作品を作るタイプではないが、彼女のその言葉に大きな違和感を覚えた。

シンガーソングライターがしばしば自分の恋愛を歌にするが、あれもダメなの?と訊ねると、それも「気持悪い」とのこと。

表現は作者本人と完全に遊離している必要があるのだと言う。

特にファンタジーには夢がないといけないので、作者という「ナマの人間」をできるだけ感じさせて欲しくない、そうだ。

確かに作品は、作家そのものではない。ある意味、独立した、別もの。

だけどそれはまぎれもなく、作家その人の中から生み出される。つまり、厳密に言えば私生活とまったく無関係とは言えない。

その人の言い草を聞いていると、

作品を作る人は、どこかにコソコソ隠れていないといけないみたいなのだ。

だいたい、その人の言っている「ファンタジー」ってなんなのか?

話を聞いていてもさっぱり分からない。

だいたいにおいて「表現」とか「舞台」という言葉の意味も私とだいぶズレているようだった。

そしてつい先ほど、ネットで土浦8人殺傷事件の裁判記事を読んだ。

犯人が語る「ファンタジー」という言葉の意味が今ひとつ分からない。

FFに夢中ってだけなら、ただ「ゲームの世界」って言えばいいのに。

ファンタジーの世界で冒険をしたい、魔法が使いたい、だけど現実は違うから、生きていたくないから、ってどういうことなのか?

そんなことで、本当に、あんなことをしでかした?

「ファンタジー」「冒険」「魔法」――

言葉のカテゴリがきっと決定的にズレてるんだと思う。

「ファンタジー」という言葉が、都合よく使われすぎてやしないか。不潔感すら覚える。

よく考えてみると前者も後者も同じ世代なので、ジェネレーションギャップ、だったりするのかもしれない。

私が古いのか?

だけどこの違和感、覚えておこうと思っている。何故って、私にとってどれも大切な言葉だから。

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るーる/じゆう

仕事場で好き嫌いの感情をコントロールできない人も嫌だし、

個人感情を仕事場での力関係に利用する人間も嫌だ。

テニスコートはテニスをする場所。プレイは卓球ではなく、もちろんテニスのルールで。

仕事場は仕事をする場所。評価は誰に取り入ったかではなく、何をどんな風にやり遂げたか、で決まる。

そう決めないと、かえって、自由でいられなくなる。

能力を発揮するのには、心が自由でなくては。

矛盾するようだが、ルールのない場所に、自由は存在しない。

時々、息苦しい現場に行くと、そう思う。

夕食後、寝転んで桐野夏生の「I'm sorry,mama」を読んだ。

というか読み返した。

というのは読み始めてから「どうもこれ、読んだことある」と思い出したからである。

いつ読んだんだろう……?

本棚に並んでいないところを見ると、途中まで立ち読みでもしたのかな……。それか人に貸したままになってるか。

うへ~とっても恥ずかしい。

でもいいや。記憶力が悪いせいで、二度も楽しめるじゃん。

細かいところはまったく忘れていたので、夢中になって読めた。

あ~面白かった。

夜中、知人と電話。

迷惑だろうとは思ったが、思わず長々喋ってしまった。

この人と話してると、自分の弱点が、いろいろ分かってくる。

それが面白くもあり、痛くもある。

今日気付いた弱点:おかしな主張をする人を切り捨てたり、叩きのめしたり、ピシャリと断ったりがまったく出来ない。

おかしな主張をする人→論理が破綻している→未熟である→子ども→ペットショップの子犬→弱い→攻撃してはいけない

上記のようなイメージが広がるため、やられてもやりかえせないのである。

反撃する術を持たないいたいけな者を攻撃するのは卑怯者だけだ。そうはなりたくない。

だけど、ほんとはやられたらやりかえさないとダメなのかな、とも思う。

私だってそんなに大人ってわけじゃないし、強いわけでもない。

フェアプレイにこだわるほど、余裕なんてないのに。

卑怯者になりたくない、なんてキレイゴト言ってる場合じゃないぞ、おい。

明らかに自分よりウワテな人に吹っかけられたら、容赦なくやりかえせるのだけれど。

勤め人だった頃、ある意味楽しかったなあ。

ウワテな人がいっぱいいて、議論ばかりしていた。

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べんきょう

昼下がり、古い友人が訪ねてきた。

アイスティーとケーキをいただきながら楽しく時を過ごした。

夕方から外出。稽古場へ。

最近運動不足なので、軽く身体を動かしてみた。気持がいい。

秋の公演ではいつも演出助手をやっているHちゃんが、演出をやる。

とても楽しみだ。

6月はその予行演習ということで、私が昔書いた短編に挑戦するとのこと。

私は助手にまわって、彼女が演出をつけてゆくのを見守る。

こういう立場になってみて、初めて「演出」という仕事を客観的にとらえることができた。

これは私にとっても、おおいに勉強になる。

よいチャンスをもらったものだと思う。

帰宅後、遅い夕飯。

食べ終わったら久しぶりに腹痛を感じた。早く休むことにする。

明日は買い物に行こう。

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さっかー の おうじさま

朝から先日もらった書類に一つ一つ手書きで記入。

最近メモとかも手書きで取らないから、丁寧に字を書くのがすごくむつかしい。

内容もさることながら、ふ~ふ~言いながら書き入れる。

昼過ぎ、手続きのため霞ヶ関へ。

窓口の方はとても丁寧で優しく、救われた。

同じ公的機関でも区役所などよりよほど親切だ。それとも、ラッキーな人に当たっただけかしら。

家に帰って、ちょっとひと眠り。

夕方頃、起き出して、台本書こうかな……という気持になるが、書き始めるにはまだイメージに鮮やかさが足りない。

近所の本屋に行って、本を三冊。

乃南アサの短編「からだ」、中山可穂「サグラダ・ファミリア」、藤堂志津子「せつない時間」。

奇しくも、最初の二人の作家は1960年生まれ。藤堂志津子は1949年生まれ。

最近、その年代の人のばかり読んでるかもしれない。宮部みゆきも1960年生まれだった気がするし。小川洋子や川上弘美もだいたいそのくらいかな。

桐野夏生や高樹のぶ子は藤堂志津子に近い。

何でだろう。

リアルタイムで言うと、かなり上の世代の女流作家が好きなのかなあ。

偶然かしら。ちょっと懐かしい感じがするのがいいのかも。

寝転がって二冊読み終えたところで電話が鳴った。

はるか昔の劇団員。

彼女は素敵な女優さんだった。

懐かしいなあ。

お互い近況報告などをしあっていたら瞬く間に時が過ぎた。

その後は「マンデーフットボール」。ネドヴェドとフィーゴがとうとう引退。

サッカーを好きになりたての頃、ネドヴェドの大ファンだったからショックだなあ。

王子さまのような風貌とは裏腹に、すごいパワーでピッチを縦横無尽に駆けまわるスタミナと強靭な肉体に圧倒された。

残念だなあ。

これからどうするんだろう?

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