お風呂の時、小さな同居人は私の背中に隠れてじっとしていることが多い。
「あれえ?どこにいったのかなあ」などと言うと、クククと忍び笑いをもらす。
飛び出してきたい気持でウズウズしながら私に発見されるのを待っている。
私が振りかえって「つかまえた」と言うと、嬉しくて笑いが止まらない。
つかまえて欲しいのは、入浴時に限ったことではなく、いつでもどこでもである。
突然、私を意味深な目線でチラッと見た後、物陰にさっと身をひそめ、じいっと待っている。
私は探しまわるフリをして、ぬいぐるみのクマやロディに「どこに行ったか知ってる?」などと訊ねてまわる。
そして、最後に発見して「みっけ」とか「いた~」と叫ぶと、キャハハハと笑い転げて逃げてゆく。
最近は、私の身体を洗いたがるようになった。
石鹸を手につけて、私の背中とか脚をこすってくる。
その後、シャワーを私に向ける。
アヒル隊長(お風呂用おもちゃ)を洗ってあげて、と言うのだが、
反応がないからつまらないらしい。
私が相手だと「くすぐったい」とか「つ、つめたいっ」とか「わあっやめて」とかいろいろ悲鳴をあげるから面白いのだろう。
他にもご飯を食べさせたがったり、
トイレに一緒に入るとペーパーをちぎって、私の脚の間に挟んできたりと
とにかく私の世話を焼きたがる。
嬉しいけれど……自分でできるんだよ。
私は、こう見えても大人だから。
深夜、人と話をする。
大切な人と問題が起こったとき、距離を置くことでしか、自分の気持を表現しないのは、損だ。
そんな話をした。
距離を置いたり、冷静さを保つのは、失敗を恐れるから。
とその人は言う。
失敗とはなんだろう?
取り返しのつかない、本当の失敗って、
大切な人から必要とされなくなってしまうこと。
執着を持たれなくなってしまうこと。
必要とする、とか執着する、って粘り気のある感情だと思う。
おそらく愛は、その粘性によってコーティングされ、保存されるのだ。
ちなみに何もコーティングされていない愛は、宗教における「愛」かな。
守りのない、感情だけがあふれる瞬間、人は人に対して、激しい愛着を感じる。
小さな同居人との生活から、私はそれを学んだ。
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