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2011年4月

せき が とまらない

ここ一ヶ月くらい、夜になると咳が止まらない。

咳って体力を消耗するのか、とても疲れやすい。

結核ではないと思う。

何故ならひと月ほど前にレントゲンを撮って、何もなかったからだ。

今日、そんなわけで医者に行ったら血液検査をされた。

水曜日に結果が出るとのこと。

咳もつらいが頭が痛くてぼうっとする。

とりあえず講義には間に合った。

校長先生による特別講義で、テーマは「生命現象におけるシグモイド曲線」だった。

先生は生命科学の研究者で、去年までは理系の大学で教鞭を振るっておられた。

畑違いのこの学校に来て、少々心細そうな感じだ。

教室の3割くらいを占める、まだ10代の女の子たちは、そのような様子を決して見逃さない。

容赦なく大きな声で私語を始める。

なんとなく、女の子たちは獣で、先生は狙われてしまった可憐な草食動物に見えてくる。

講義の内容は興味深い。

しかし私語の声が大き過ぎて、何も聞こえない時が続く。

そのうち先生が少し小言をおっしゃって、私語は小さくなった。

大学生の頃を思い出す。

学生の私語はやはり大きな問題になっていた。

一方で、この学校の人たちは真面目だな、とも思う。

どの講義でも、とにかく出席率が高い。サボって遊びに行ってしまう人もいない。

私も、学校を抜け出して芝居の稽古場に入り浸っていた。

教室におとなしくいたためしがないので、講義中の私語に不快感を覚える機会がなかった。

まあ私語もサボリも、同じような良くないことなんだろうけれど。

でも私語について言うと、他の人に迷惑だし、先生を傷つけるので、

私なら最初からサボッて喫茶店に行くなあ。

昼休み、親しい人からのメールに気付く。

優しい言葉に、気持がほぐれた。

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まま かわ

小さな同居人は「いやいや」「いやだちゅー」「いやもん」などと連発する。

楽しそうに、悪戯っぽい感じで「いや~」と言ってくる。

今朝も

「うどん食べる?」

「いやだっぷぅ~」

「うどん食べるひと~」

「(いいお返事で)はい」

どういうことだよ?と思うが、

まあ、言葉遊びに近いものなのだろう。

今日はつながっていない電話の受話器に向かって、楽しそうに「いやだもん」と言っていた。

誰に言ってるんだ?

というか何がいやなんだ……。

最近二つのソファの間に入って両サイドの肘掛に手をつき、

まるであん馬のような状態で身体を支えて遊ぶようになった。

脚を宙にブラブラさせたり、お腹のあたりまで持ち上げたりして、

得意そうに笑う。

だいぶ筋力がついてきたようだ。

ぶらさがったり、高いところにのぼるのが好きなようだ。

反対にくぐったりしゃがんだりする動作は好まない。

空想遊びがさらに好きになったようだ。

掌に何か食べ物を載せているつもりなのか、つまんで食べたり、ポケットにしまいこんだりしている。

ぬいぐるみとぬいぐるみを挨拶させたり、いびつなかたちの丸を描いて、ワンワンと呼んでじっと何か考えたりしている。

ときどき、「まま、かわ」と私の頭を撫でる。

「ワンワン、かわ」と犬に呼び掛けるところをみると、

「可愛い」の意であろう。

ありがとうね。

うれしいな。

小さな同居人を可愛がっているつもりで

実は私のほうが可愛がられているのかな?

そんな考えが浮かぶしあわせ。

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後ろ指という名の見えない敵について 

忙しい一日だった。

料理をまとめて作り、掃除をして、レポートを書いた。

小さな同居人を寝かしつけ、テレビをつけるとカズオ・イシグロの特集した番組をやっていた。

全部は見られなかったが途中から途中まで30分くらい見た。

私の好きな作品「私を離さないで」を中心に取り上げていた。

あの作品を読んで、衝撃を受けた人がたくさんいるのだとあらためて思い知らされた。

「私たちは大切な人を亡くします。

でもその人の記憶を持ち続けることはできる。

その意味では、記憶は、死を凌駕しています」

そんな風にカズオ・イシグロは語った。

彼はそう語る一方で

記憶は自己及び取巻く環境にコントロールされた存在だ、

というテーマにも取り組んでいる。

どちらが本当なのだろう。

いや、どちらも記憶の重要な側面なのだ、きっと。

そのあと、コーヒーカップを床に落とした。

カフェオレはこぼれたが、カップは幸運にも割れなかった。

すべてを綺麗に拭き取ったあと、何故か突然頭に浮かんだ。

私が今、感じている違和感について。

「震災という大きな、悲しい出来事に乗じて、目に見えない何かが極めて善人の顔をして徐々に姿をあらわしてきている」ということ。

その何かは、自粛という言葉のもとに、生活から自由を奪おうとする。

こんな時に笑うべきでない、と言う。

こんな時に楽しむべきでない、と睨む。

「被災地の人々の気持を考えろ、だからお前たちは何もするんじゃない」

あえて何かをやろうとしている人たちは

「被災して困っている人もいるのにごめんなさいね」的なコメントをチラシや看板に載せて

周りの目を気にしながらオドオドとやるしかない。

後ろ指、という名の目に見えない敵。

もし本当に、被災地の人々のことを考えるなら、安易な自粛こそ「自粛」すべきだ。

節電はもちろんしなければならない。

でも、被災しなかった人たちは、できるだけ普段どおり生活しなくちゃ。

こんな時だからこそ、なのだ。

お金がまわらなくなって経済がこれ以上滞ったら、復興資金はどうなるのか。

悲しみを分かち合うことは大切だ。

でも、被災していない人々が、落ち込んだきり元気をなくすのはどうだろう。

支える側に立とうとするなら、それなりの覚悟をしなければ。

共感だけでは、救えない。

それに、彼らが味わった苦しみを完全に共有することなど、

絶対に

できない。

もしできると思っている人がいるなら、それはごう慢というものだ。

それを前提に、しかし、理解しようと努力すること。

自分に何ができるのか、必死で考えること。

今の私には、表現することしか、できない。

寄付もしたけれど日々の暮らしに精一杯で、

そんなにまとまった金額ではない。

結局、私に何ができるかといえば、

表現活動をして、人の心に何かを投げ掛けてゆくしかない。

物語は、必ずしも希望に満ちているわけではない。

でも、感情が動けば、心も身体もあたたかくなる。

動くということは、エネルギー値が上がるということだ。

私はそのようにして、人の心にいきいきとした炎を宿したい。

舞台照明でなくて、蛍光灯の下でもいい。

装置もいらない。

生の言葉と音楽があれば、よいもの、五感を刺激するものができると信じる。

9月の初旬に作品を上演しよう。

公演を止めることは簡単だけれど、私はしない。

止めたって私に助けるための何かができるわけもないのだから。

震災に便乗して、サボタージュするのはイヤだ。

自粛という言葉のもとに何もかもやめるなら、

見えない何かに屈するということだ。

「後ろ指」に怖気づくなんてまっぴらごめん。

コーヒーを拭き取り終わったら、

頭の中で渦巻いていた考えがすとんと言葉になって、整理された。

私は行動する。

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がっこう の ひび

朝、学校へ。

自転車で爆走していたら、すっころんでしまった。

小さな同居人を乗せていなくて本当によかった。

まあ乗せていたら爆走しないけれど。

大丈夫ですか、という声がして見上げると、

すごい美人が心配そうに微笑んでいた。

落ちたカバンを拾い上げ、怪我はないですか、と訊いてくれた。

ありがとうございます。大丈夫です。

お礼を言ってまた爆走。

だって仕方ない。遅刻しそうなのだ。

園が小さな同居人を受け入れてくれる時間と、1限めの講義の時間がとても近くて、

毎朝綱渡り。

なんとかならないかなあ。

午前と午後びっしり授業。

そして来週はもうピアノの豆テスト。

掲示板にレッスンのクラス分けが張り出してあった。

先生の名前で発表してあって、自分が中級なのか上級なのか分からない。

中級に振り分けられてるとありがたいのだが。

課題を30分ほどさらった。

まだ楽器が始まったばかりだから譜面は簡単だけど、

歌いながら弾くのはたいへんだ。

しかもここ一週間ほど喉が痛いし。

練習のあと、園へ。

小さな同居人は私を見て、余裕な表情をしてみせる。

おいでよ、と言っても、顔をじっと見つめたまま、抱きついてこないから、

こちらも連絡帳をカバンに入れたりしていた。

他の子が寄ってきたら、突然走ってきて抱きついた。

そうして抱き合ったあと、靴下をはかせようとしたら、今度は床にひっくりかえって、仰向けに寝転んだまま、足で床を蹴り頭の方向へ進んで、すばやく逃げてゆく。

水中を泳ぐイカのようで面白い。

先生たちと大笑いした。

抱き起こすと身体の力を抜き、ぐにゃぐにゃになってエヘヘと笑う。

私が困った顔をするのが面白いのだろう。

またしても他の子が寄ってきたら、突然しっかりした顔つきになって

私に抱きついた。

今はまだ、新しい自転車が来ないので、持っている自転車でおんぶしての往復だ。

そのせいか身体の疲労が激しい。

三月末から秋にやるライブの台本を書きすすめていたが、

ここのところ、なかなか書けない。

夜中に起きて書こうと思うが身体が動かない。

でもまあ、時々は書いている。

焦らないでのんびりやろう。

学校で自由に使えるパソコンがあるけれど誰も触っていないので

なんとなく遠慮している。

レポートとかは学校で書こうかな。

今週は持ち帰ってきてしまったが、来週からはそうしよう。

家での時間は小さな同居人と、それに芝居に使いたい。

講義は刺激的なものと、そうでないものがある。

やはり独断と偏見を持っている先生の授業のほうが面白い。

高校出たばかりの若い人がそういう意見を聞いたら

影響を受けすぎてしまってよくないのかしら。

私は、無難なことしか言わない教授よりも、

変人を観察しているほうが楽しいのだけれど。

離れたスタンスから見てるからかな。

クラスは高校出たばかりから還暦まで、とにかく幅広い年代の人たちがいる。

クラスの半数は若い人たち。

お互い意識しあって、ぎこちない態度を取り合ったりしている。

見ていて新鮮だ。

ワークショップで大学生を教えたりはしているけれど、

なんか雰囲気が違う。

ここにいる若い人たちは、二種類だ。

アニメとか戦隊ものに凝っているオタク系の女子。

それとすごく短いスカートかパンツを身につけた、バッチリメイクな女の子たち。

オタク系の女子たちは総じてノートを真面目に取っていて、

時々イラストをノートの端に書いている。

バッチリメイクな女の子たちは、私語が多い。

先生が何か失敗をするたびに、大きな声で笑う。

私語は講義の邪魔という側面もあるが、

捉え方によっては、社交性のあらわれと見ることもできる。

学期が始まってそうそうに、周りの子と授業中にお喋りできるくらい親しくなれる、ということでもあるのだから。

オタクの女の子たちは、友だち欲しそうだが、まだできない感じ。

でも、どちらのタイプもすごく周りを意識していて、大変そうだ。

若くないっていうのも、なかなかいいなあ、などと

青春をとっくに通り過ぎた私は、しみじみ感じ入るのである。

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やだの と やだも

小さな同居人が二週間ほど前から「やだ」と言うようになった。

そして、ここ数日は「やだの」「やだも」を連発。

とうとう「いやいや期」に突入だ。

といっても、まだまだ知恵が少し足りない。

「これ食べる?」というと「やだも」と首を横に振るが、

「これ食べる人」と訊ねると「はい」と思わず手をあげて答えてしまう。

ブランコの立ち乗りもできるようになった。

小柄なので自分で乗り降りはできないが、乗せてやると、サポートなしでバランスを取る。

昨日は川沿いの道に桜を見に連れていった。

桜の花びらが散るのを、ぽかんと口をあけて見つめている。

花びらを追いかけて手が宙をさまよう。

なかなか花びらはつかまらない。

途中で、つかまえてないのに、花びらをつかまえたつもりになったりして、

最近は空想遊びも得意である。

今日は昼寝から「やだのやだの」と言いながら目を覚ました。

幼い心が、とうとう私から離れ、一人で走り始めた。

「主張したい」という気持と、考える力が釣り合っていないことに対して

自分自身、苛立ちを感じることもあれば、

ユーモアを感じたりすることもあるようだ。

愉快そうな顔をして「いやいや」と言ってくることもある。

私自身楽しみながら観察できればいいなあと思う。

心というものがどのように完成されてゆくのか、たいへん興味深い。

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はは の ことば

小さな同居人が家人の携帯を耳にあてて、

「ふん、まんな、あーごうんにゃぷっちゃ」などと延々と喋っている。

ときどき、喋りながらお辞儀などもしている。

ごっこ遊びなのかな?

誰かと喋っているつもりなのか、と微笑ましく見守る。

あとで姉から電話。

小さな同居人は実際、姉に掛けていたらしい。

電話の主が家人ではなく、小さな同居人だと気付いた姉は

「こんにちは」と言ったそうなのだが、

小さな同居人の弾丸トークに圧倒されて

そのあとは何も言葉を返せなかったらしい。

偶然なのか。

よく分からない。

とにかく、話したいことがたくさんあるんだねえ。

真面目な顔でお辞儀していたのは、私のマネだろうか。

確かに、ときどき、電話でお礼を言いながらついお辞儀をしてしまう。

見えないのにね。

マネしているのを見ると、なんだかフクザツ。

このところ言葉も行動も爆発的に進化を遂げている。

それなのに、何か失敗したり心細くなったりすると、

すぐにおっぱいを欲しがって赤ちゃんに戻る。

震災後、子どもの心のケアを専門にする人が言っていた。

「子どもには『保障』を与えなければいけない。大丈夫だよ、と言ってあげて」

そういえば私も授乳しながらときどきぼそぼそと無意識のうちに呟いている。

「大丈夫だよ。大好きだよ」

「大丈夫だよ」って、お母さんの言葉なんだ。

被災地の子どもたちを想う。

母の存在を失った子どもたちに、せめて「母の言葉」だけは届けてあげたい。

本当に大丈夫なのかとか、現実は大丈夫じゃないのに、そんなことを言って無責任だとか、そんな大人の理屈はどうでもいい。

「大丈夫だよ」という「言葉」「ぬくもり」が必要なのだ。

私にできることはなんだろう。

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にゅうがく いわい

昨日は入学式。

今日は学校のオリエンテーション。

説明を聞いたり、教科書を買ったり。

最後のほうはホームルームの時間になり、互いに自己紹介した。

なんだか気恥ずかしい。冷や汗。

終業後、少し早かったが、保育園に迎えに行き小さな同居人と再会。

夜、昔の同僚が入学祝をしてくれた。

ファミレスで夕飯。

小さな同居人は早速、隣のテーブルに座っている感じのいい初老の夫婦と

アイコンタクトを交わして上機嫌である。

小さな同居人を連れて、家族以外と外食なんて、本当に久しぶりだ。

それなのにすごくくつろぐ。

やはり古い友人だからか。

私はふだん、人といると、相手の帰宅時間を気にしてしまう。

長く引き止めてはいけないという気持が強い。

でも元同僚と一緒にいるとのんびりしてしまって、あまり時間のことは考えない。

帰ろうとテーブルを離れようとした時、元同僚はぱっとしゃがみ小さな同居人が床に撒き散らかした食べかすを拾ってくれた。

ありがとう、申し訳ないと言うと、商売柄だから気にしないで、とあっさり返された。

つかみ所がない人だけど、かなわないな、いつも思わされる。

昔から。

家族以外に入学をお祝いしてもらえるなんて、思っていなかった。

ありがたい。

きっと私より器がだいぶ大きいんだな。

あなたの夢、かなうといいね。

そんなことを考えながら帰途についた。

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こきゅう する ように

昼、人を招いてご飯を食べた。

サバの味噌煮、豚汁、南瓜そぼろ煮、ほうれん草のおひたしなど。

久しぶりにゆったりとした時間を過ごした。

この人と話すときは、本当のことを話すだけでいい。

人間って、素のままの自分でいる時は、自分を意識しないんだなあ。

ただ、ふうっとそこに存在しているだけ。

自然に。

呼吸するように

明日から通学が始まる。

書類などの準備はだいたい終わった。

きっと周りは若い人ばかりなので緊張するなあ。

親だと思われてしまうかもしれない。うふふ。

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きっと できるはず

週末、房総半島に旅行。

小さな同居人は牧場の羊やシーワールドのペンギンに歓声をあげた。

私はというと、家人と一緒で精神状態がきつい。

血縁の中で私ひとり信頼されていない。

ほんの日常的なことでもその話を疑うところから出発する。

そんなはずはない、お前の言っていることは嘘だろうと否定される。

ちょっとした用件を伝えるのにもひと苦労である。

ストレスがひどいので、一緒に旅に出るとたいてい悪夢を見る。

話を信じてもらえない夢だ。

信頼されない理由はきっとたくさんあるのだと思う。

私以外の家族は信頼しあっているのだから、理由があるのだろう。

物語を作るから、日常でも嘘をつき、話を造るのが巧いのだろうと、言われたことも何度かある。

そんなことをして、何になる?

私も得しないのに。

誰も喜ばないのに、日常で話など造らない。

早く離れたいなあと思う。

物心ついてからずっと違和感と怖れを感じてきた。

我慢はできる。何十年と続けてきたことをやるだけだ。

しかし、家人といると私の顔から微笑みが消える。

誇りも歪む。

だからこそ、小さな同居人を宿した時、もう我慢するのはやめようと心に誓ったのだ。

おかしいと感じたことは、できるだけ口に出そう。

我慢する人は偉いのかもしれないけれど、

子どもは幼い心で必ず気付く。

私がそうだった。

寝入りばなと、夜明け、悪夢で目覚めた。

寝入りばなのは忘れてしまったが、

夜明けのは恐ろしかった。

未だに私は、親の呪縛から逃れていないのだと痛いほどに感じる。

今は未来のことを考えて一つ一つ積み上げてゆく時だ。

力をつけたら、遠いところに逃げ出そう。

あともう少し。

貧しくとも誇りに満ちた生活をつかみたい。

きっと、できるはずだ。

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