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2011年8月

子を産む経験をたとえ持たなかったとしても、

私はやはり、子どもを育てていたように思う。

愛が自己拡張でないことが

こんなにはっきり確かめられる機会は、他にない。

一日に何度も、好きだよ、と叫びたくなるなんて。

絶対に報われないのに。

確かに先方も私のことを熱烈に好きなようだが、

それはおそらく成長とともに、変化してゆく。

少なくとも熱烈でなくなることは確かだ。

でもおそらく私のほうは、死ぬまで気持が変わらない。

そういう意味ではまったく釣り合っていないし、

報われもしない。

というか、報われてはいけない。

私の思いが重荷になって、

小さな同居人の足を引っ張ることになったら、と考えると、

今からヒヤヒヤする。

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いちにち いっしょ

小さな同居人の誕生日があった。

保育園でも8月生まれの子たちの誕生会があったし、うちでもお祝いをやった。

誕生日は園を休んで、一日、一緒に過ごした。

お昼ご飯は外食にして、その後、リハ会場へ。

ベビーシッターをやっている友人に頼んで一緒に来てもらう。

小さな同居人はときどき、芝居に集中してじっと見つめていた。

やはり歌が好きなようだ。

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おうじ の ひつようせい

小さな同居人の世話と料理と洗濯と稽古の前後に、

仕事の台本をたぶん12,000字くらい書いたと思う。

本当に疲れた。

舞台の演出のためにも、一度クールダウンしたいなあ。

というか、少し休む必要がある気がする。

3キロくらい痩せてしまった。

心臓の鼓動の振動で、

身体がぐらぐらと揺れて、保てない時がある。

王子さまって、こんな時にあらわれるのかしら。

というか、自分が仕事でやっている台本の必要性がわかった気がした。

女の子は、みんな助けを待ってるんだ。たぶん。

助けて、助けて。

まあ一人で格闘するしかないんだけどねえ。

以下メモ。

昨夜、あまりよく知らない人から、印象的なメッセージをもらった。

たぶん素敵な人だ。

たぶん、というのは、いろんな意味で、私と無縁な感じがするからである。

お互い、近付こうとしないだろうな、という感じ。

でも何度かメールの文面は反芻した。

反芻するくらい、いいんじゃないだろうか。

もちろん、返信はしていない。

したらしたで、相手も困るような気がした。

しかし、何故こんなものが届いたのだろう。

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おちついて ちゃくちゃく

ワークショップ公演「穴ヲ食ベル」と本公演「なぞり虫しりきれ蜻蛉」のリハ二本立て。

音楽や照明のきっかけと打ち合わせ事項が渦巻いて、頭がパンクしそうになる。

舞台監督や照明家、制作さんの優しさと配慮がなければ今日はとても乗り切れなかった。

本当に感謝。

T氏の作る楽曲そのものの素晴らしさと、芝居に対する鋭い洞察に、舌を巻いた。

昔から組んでいるが、一緒にやれていつも幸せと誇りの両方を感じる。

頑張ろうという気持がさらに湧いてきた。

帰宅後、寝かしつけ。その後、役者、音楽家とメールのやりとり。

ご飯食べた後、ドラマCDの台本を書く。

やることたくさんありすぎるけど、パニックになったらおしまいなのね。

うん。

落ち着いて。着々と。

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しんにゅう

昼食までは小さな同居人と過ごした。

午後はワークショップ公演の稽古場へ。

演技の細かいところまで演出できる状態になってきた。

手応えを感じる。

夕方一度家に戻り、風呂の準備と夕飯の用意。

夜は本公演の稽古場へ。

こちらは私の台本の進化の歴史?を踏まえて言うと、

最近のスタイルと、大学時代にはまっていた手法を客観視した芸風とが

入り混じっている。

リミックスバージョンという感じだろうか。

絶対的な喪失について書いているけれど、

たぶん、私の内的な喪失についても書かれているのだと思う。

自分では無意識だから、よく分からないけれど。

帰宅してから、ドラマCDの台本を一本入稿。

明日のリハで舞台監督と照明さんに渡す台本やら図面やらを印刷していたら、あっというまに時間が過ぎてしまった。

今日はあの人のことを何度か思い出した。

仕事中とか、考えてはいけない時に、私のことを思い出しているといいのに、と思った。

私はたぶん、人の想念に侵入するのが好きなのだと思う。

だから物語を書くのが好きなのだ。

物語の世界に引き込むというより、物語をその人の中に侵入させ、領域を侵す。

日々の暮らしの中でも、始終、人の内部に入りたがっている。

人が入ってくるのは嫌だが、自分はちょっとお邪魔したい、そんな感じ。

猫みたいだ。

何かを熱心にやっていると、必ず間に割り込んでくる。

パソコンでもパズルでも。

それを放り出して猫に意識を移すと、満足してどこかに行ってしまう。

猫役の動きを演出しながら、そんなことを思った。

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どう なづけるか

小さな同居人がお気に入りのマスコットを集め、

保育園ごっこをするようになった。

ゾウ、カエル、ヒヨコ、ネズミの小さな人形にあててセリフを言いながら動かしている。

ねずみ「ママ~ママ~」

ゾウ「チュウちゃん泣かないで。だいじょうぶだいじょうぶ」

ねずみ「ママ~ママ~」

カエル「おむかえまだなの?まだなの?」

ゾウ「ママ来ゆよ。ママ来ゆよ」

ヒヨコ「抱っこ。抱っこちてあげる」

小さな同居人自身「だいじょうぶだよ~。だいじょうぶだよ~。ちゅうちゃん、抱っこ抱っこ。ゾウちゃんおむかえきたよ」

ゾウ「わーい」

という感じである。

でも、何故かカエルがその後ママ役になったりする。

小さな同居人は常に美味しいところを持ってゆく役である。

その場その場で赤ちゃんになって泣いたり、ママになったり、保育士さんになったりする。

淋しいのかなあ、と思う。

小さな同居人の望んでいることは、私と片時も離れずにいることなのだろうか。

私はかなり家事をさぼっているから、園に行くまでと、お迎え以降は、だいたい一緒に遊んでいる。だけど、時間が足りないのか。

すべての感情を捧げなくてはいけないような気がしてくる。

すべての時間を捧げなくてはならないような気がしてくる。

というか、捧げたくなってくる。

私が体験しているものは、愛なのだろうか。

それとも、母なのだろうか。

とりあえず、分かっているのは、

どう名づけるかには意味がないということである。

稽古場で、幽霊になった母と母を想う娘のシーンを見ていて、はっと気付いた。

死ぬってことは永遠になるってことのようでいて、

そうじゃないんだ。

自分で台本を書きながらそう思っていたのに、でも本当には分かっていなかったんだと思う。

稽古場で、役者がセリフを発しているのを聞いて、やっと分かった。

死ぬってことは、風になって、砂になって、さらさらと彼方へ飛んで行ってしまうってことなんだ。

師匠を思った。

私は何度も何度も繰りかえし、師匠と過ごした時間を再生している。

くどいほどに。

何故再生しているかといえば、

風になって飛んでいってほしくないからだ。

日常の爆風に流されて、彼方へ行って欲しくないのですがりついている。

すがりついて、無理やり再生している。

あの人は、私と過ごした時間をなぞっているだろうか。

ふと思った。

記憶をたどるにも勇気がいる。

そういう強さが、あの人には残っているだろうか。

私は強いかどうか分からないが傷つくことを恐れたくない。

だから思い出せることは全部思い出してみるタイプだ。

とりあえず。

ただし、記憶力がひどく悪いから、思い出せることはすごく少ない。

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つなわたり

明け方まで書いて、その後ちょっと仮眠をとるつもりが、朝寝坊。

園までなんとか送って行って、

朗読劇の稽古に向かう。

作曲家M氏とベーシストのOさんと、三人で練習と打ち合わせ。

和やかに進行する。

昼から本公演の稽古場へ。

役者と演出の両者で、言葉と空気の密度を高める。

途中から、お盆休みを取っていた女優のKさんも顔を出した。

お帰りなさい。

練習が終わった後、急いで帰宅。

本日入稿予定のゲーム台本の残りを書き上げ、送信した。

ギリギリセーフ。綱渡り。

ああ、なんか疲れたなあ。

小さな同居人に早く会いたい。

急いで園に向かう。

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からっぽ の ぶたい

午前中はゲームの執筆。

午後は稽古場へ。

夕方から劇場下見。

小さな同居人を園から引き取り、連れて行く。

9ヶ月ぶりくらいに劇場スタッフの方と再会。

小さな同居人はまったく警戒しないところを見ると、

おそらくよく覚えているのだろう。

採寸などは同行してくれたワークショップの子に頼み、

私は、がらんどうの舞台をじっと見つめていた。

ラストシーン、どのようにすればよいか……。

突然、小さな同居人が舞台を指差し、小さく何か口ずさみ始めた。

去年、あの場所で音楽が鳴り、役者が演じた。

そのことを思い出したのかもしれない。

同居人は新しい場所が苦手だが、

ここではものすごく落ち着いてリラックスしている。

まったく物怖じしない。

やはり覚えているのだ。

そうだね。お腹にいる時も含めると、この劇場は三度目だもの。

誰もいない客席に並んで座って、二人でバナナを食べた。

シーンと静まりかえったからっぽの舞台に、

私も小さな同居人も、思い思いの芝居や音楽を思い浮かべた。

舞台はからっぽなのに、

そこにはありとあらゆるものがあるように感じた。

音があふれてきた。

光が渦巻いて見えた。

そこにはすべてがあった。

幸せな時間だった。

帰り際、劇場のY氏と同行してくれたTちゃんに

心からの謝意を伝えた。

本当にありがとう。

ありがとう。

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かみひこうき

朝、ほんの少しだけ執筆。

小さな同居人を母親に託し、音楽スタジオへ。

M氏と朗読劇の音楽合わせ。

物語世界を音楽という船に乗ってさまよう。

M氏の演奏に合わせて、朗読するのは初めてだが、この人とは楽しくやれるな、という強烈な予感。

私の喉が枯れていたからか、

「大切にしてね」「気をつけて」と優しいお言葉をたくさん掛けてくださった。

大丈夫なんだけどなあ。

これもただの予感だけど。とにかく大丈夫。

朗読劇は面白いものに仕上がるという確信を感じた。

昼過ぎ帰宅。

小さな同居人を寝かしつけ、ゲームの台本。

夕方までに入稿は無理かと思ったけれど、頑張ってやったら3時半に終わった。

何とかなるものだ。

夕方、小さな同居人と散歩&買物へ。

帰ってきて入浴。

風呂上りの状態のままノーメイク、髪洗いっぱなしのまま、稽古場へ。

やっと最後のシーンまで、演出をつけ終わった。

今週末に初めての音楽リハ。

どうなるか。

ただ、とても面白い舞台になりそうな予感がしている。

演出もいつもより楽しい作業だ。

「届かない思い」について考える。

私はいつも芝居でそれを書くときに、紙飛行機にして飛ばす、というパターンにすることが多い。

「青のすべて」もそうだし、「紙飛行機」(題名そのまんまやんけ)、「うみのそこ ハズのくに」という作品もそうだ。

思いが届かないからといって、

それを懐にしまいこみ、ミイラのように干乾びさせてしまう、

というのは好きじゃない。

届かなくても、それがどこに行きつくか分からなくても、

思い切り腕を振りかぶって、「届け」と紙飛行機を飛ばす、

そういう人間が好きなのだ。

不様な、あがいている人間が好きなのだ。

かっこ悪い自分を直視できるということは、

勇気がある、強い、ということでもあるから。

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おとゅな

昨日、何故か分からないが、

園からの帰り道、小さな同居人に

「ママはベビーカーに乗るの?」と突然訊かれた。

「乗らないよ。ママは赤ちゃんじゃないし」

と答えると

「ママは子ども?」と返してきた。

どうも「子ども」=「ベビーカーには乗らない」らしい。

「いやママは子どもじゃなくて大人なんだよ」

「おとゅーな……」

「うん、大人なんだよ」

「お、とゅ、なっ」

通じたような通じていないような。

今日はとてもつらいことがあった。

私、ほんとにどこも気の休まる場所がないなあ。

女、三界に家なし、という言葉がある。

女性の地位の低さを表すのに使うらしい。三界っていうのは仏語で、欲界・色界・無色界のことだってさ。

別の意味で、私にはどこにも家がないんだと思う。

メールで思わず弱音を吐いてしまった。

すぐに優しい言葉が届いたが、

あんまり頼らないでね、という牽制も文面からなんとなく感じた。

そこまで寄り掛かろうと思ったわけではないけれど、

そう取られてしまうのも仕方ない。

おそらく本音は迷惑なのだろう。

弱音は吐くものではないな、という結論。

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ひろう が はげしいと

時々、すごく馬鹿みたいなんだけど、

それを承知で言うと、

かわいい、という目で見られているような気がすることがある。

あんたいくつなんだよ。

たいてい疲労が激しい時だ。

今日は疲れて過ぎているせいで、とうとう頭がおかしくなったのだと思い、

つい、そういう目をしてきた本人に確かめてしまった。

礼を失わない人だから、そうだよ、と認めてくれた。

礼?あるいは優しさか。

あ、ありがとう。

どちらにしろ、そんなことを人に訊くなんて、ちょっと狂ってきたんだと思う。

この前、現場でもそういう目で見られてるような気のする時があったが、

相手が怖い感じの人だったので、問いただしたりしなかった。

ふう、助かったぜ。

あたしはなにやってんだ。

そういう目に遭遇すると、

なんとなく好きになってしまいそうな気がする。

疲れている時は

あまり人の顔を見ないほうがいいね。

未来を描くことができた途端、感情が動く。

未来がないな、と思った途端、気持が冷えてゆく。

未来と感情がつながるって、打算的なのだろうか。

でも、そういう感覚を持っている時の私は、

比較的、健全な状態だと思う。

先のことなんか知らない、と思っていた時代もあったが、

本当にダメダメな生活を送っていた。

二度とあの頃には戻りたくない。

加減乗除、取捨選択、カゲンジョウジョ、シュシャセンタク、

呪文のように唱えながら、仕事を続ける。

夢もなく、恐れもなく。

シュシャセンタク、シュシャセンタク……。

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これは ぬれてない?

小さな同居人の服がスイカの汁で濡れたので着替えさせた。

新しいシャツをかぶりながら、

「これはぬれてない?だいじょうぶ?」と訊いてくる。

面白いなあ。

お姉さんっぽいね。

昨夜は倒れてそのまま寝てしまった。

というわけで原稿は自分の考えたスケジュールより遅れている。

まあこれから巻き返すつもり。

人に意地の悪い気持を起こさせる人っていうのがいる。

最近、気付いた。

その人は全然悪くないし、たぶんいい人なんだけど、

いろんな人から意地悪な見方をされている。

不当ともいえるくらい評価が低い。

その人は全然それに気づいていない。

評価が低い理由もなんとなく分かる。

見栄っ張りでプライドが高い、ということにつきるだろうか。

泥まみれになりながら、自分をさらけ出して一つのことに取り組む、

みたいなところがない。

自分のカッコ悪さに気付かれないよう、いつも壁を作ることに余念がない。

どんな人間か見えてこないから、

最後の最後で信用できない、って感じになるのかもしれない。

それって、幸せなことなのかな。どうなんだろう?

気付かない(気付けない)から、意地悪な見方をされてしまうのか。

それとも、気付かないということ自体、得している、とみるべきなのか。

とにかく、見栄っ張りな人に対して、

人って冷ややかな目を向けがちだと思う。

その意味では損してると思う。

でもそういう人にとっては、それが普通になってしまっているから、損ではないのかなあ。

かといって、

私のようにカッコ悪いバタバタを人に対して見せすぎるのも、良くないと思う。

冷ややかではないけど

いつも呆れた顔や「大丈夫?」という目を向けられていて、

だんだんそ慣れてしまってきている自分がいる。

気をつけないとねえ。

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さいくる/なにきるの?

夜中起き出してドラマ脚本を朝まで書き、

小さな同居人を園まで送ったあと、午前中書いて一本入稿。

午後は稽古場へ、というパターンで

なんとかやっている。

しんどい。

しかも稽古場まで自転車だし。

園のお迎えに間に合わせるためには、自転車でないとむつかしいからだ。

体力も温存できないし、困ったなあ。

午前中入稿後に新しいものに手をつけて1000字。

4時頃起き出して4000字。

朝、園まで送ってから2500字。そのまま11時に仕上げ、入稿。

新しいものに着手、執筆。正午までに1000字。

というサイクルで行くと、なんとか回せることに気付いた。

朝食の時間が来て小さな同居人を起こす。

デザートにスイカを食べていたら、

突然自分の分を「私の」という感じで胸に抱き締め、私を見た。

何故?横取りしようとしていないのに。

「それ、あなたのだよ」と言って、見ていたら、

焦れたように半泣き。

どうも、取りっこをしたかったらしい。

園に送ってゆく前、「ママも着替えるの?」

というから「そうだよ」と答えると、

「何着るの?」とさりげなく訊いてきた。

うーん。すごい。

もう赤ちゃんじゃないんだね。ほんと。

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じかい の ため に

以下、他山の石、自戒のために。

複数のジャンルを手掛ける人で時々見かけるのが、

何か落ち度があるたび、

専門じゃないから、とか、本当にやりたい仕事じゃない、などと言い訳するパターン。

専門じゃないとか、やりたい仕事かどうかとか、

落ち度とは何の関係ないのだから。

そのジャンルに関わりたければ、そんなことは言わぬがよろしい。

失敗してもいいが、

失敗の理由を合理化しないこと。

あとは、「本当にやりたいことじゃないから~♪」という歌を口ずさみながら

ほんの少しずつジャンルをずらしながら、仕事を変えてゆくタイプ。

ジャンルを変えるのはいいと思うんだけど

結局ぶち当たる壁は一緒なのだ。

思い切って責任を取るかどうか。

責任を取っても、神経擦り切れてしまわぬほどのタフさを持ち合わせているかどうか。

それも含めて能力と呼ぶのだと思う。

どちらのタイプも潔いとは思えないし、美しくない。

今の私は手掛けるジャンルが多い。

だから気をつけなければならないと思っている。

ミスをした時に、人に謝れるかどうか。

おかしな言い訳をせずにいられるかどうか。

そのジャンルから逃げ出さずにいるタフさを持ち続けられるかどうか。

私の強さに掛かっている。

人に嫌われてもいい。

でも、醜くなるのはごめんだ。

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きょうぼう な けもの を かう

とにかく請負仕事の脚本、書かねばならぬ。

暇があったらチクチクチクチク。

編み物みたいに根気良く。

突然、師匠に会いたくなった。

お喋りしたい。

会えないと分かってるから、会いたくなるのかな。

T先生にもメールしてみよう。

どうしたらいいのか、意見を訊きたい。

それにしても私のような自己中の人間って、

どうやったらできあがるのか。

小さな同居人を私のような人間にしたくないから、ほんとのところを知りたいんだけれど。

真実はどうなのか。

生まれつきなのか、親の教育の結果なのか、それとも自分の心掛けの問題なのか。

しかし心掛けっていうのも結局、周りの人から学んだりして身につける部分が多いような気がする。

私自身に関して言うと、

自己中な気持を抑えて生活はできる。

でも自己中な気持が大き過ぎるから、我慢をものすごくしないと、日常生活が営めない。

もともとの自己中な気持が小さければ、

自然にしていられるのに。

まるで心の中に凶暴な獣を飼っているみたいだ。

飼い慣らすだけで精一杯になって、

身動き取れなくなってしまっている。

そんな感じ。

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あたらしい じぶん

昨日の午後、本公演の台本のラストを書き終わった。

稽古場で、「脱稿おめでとう」と言われ何故か「脱肛」を想像、勝手に複雑な気分になる。

考えてみれば脱稿という言葉、自分で使ったことが一度もないな。

たぶんこれからも使わないかも。

脱稿→脱皮?

原稿を最後まで書くってことは。

新しい自分になるっていうこと?

私としては、原稿のほうに魂が宿ってる感じなので、

自分が抜け殻みたい。

でも自分のほうも急速に充電、復旧させなくちゃねえ。

と思ったら何故か涙が出てきた。

昨日、小さな同居人と一緒に歌のDVDを観ていたら、自分とあまり変わらない年齢の子を指さして「赤ちゃん」と言う。

その顔が優越感に満ちていたので、笑いをこらえるのにこちらは必死だった。

自分は赤ちゃんでないという意識を、はっきりと持っているようだ。

最近、こちらが訊いていないうちから、「赤ちゃんない、おねえさん」(私は赤ちゃんじゃないの。お姉さんだから)と主張してくる。

それなのにまだ乳離れできない。

「おねえさんは、ぱいぱいのまないよ」と言うと、グズって泣き出すが、

時々、少し飲んでから

「ぱいぱいはおしまい。おねえさんはのまない」と言って、離れていくこともある。

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複数の仕事を同時進行していたら

ついにいろんなことがキャパシティを超えてしまって、

記憶というものができなくなった。

さっきのことも思い出せない。

体力の限界。

稽古場からの移動の時、荷物を運ぶ助けを求めたら、相手が躊躇していたので、

「大丈夫です」と言って、そのまま担いで大通りへ。

タクシーに乗った。

本当は助けて欲しかった。

夜の稽古場では、私がトイレに入っているすきに、

役者さんが荷物を建物の外まで運んでくれた。

彼に助けてもらったのは初めてだったから驚いた。

帰る時に「気をつけてね」と心配そうに言われた。

きっと疲れた雰囲気出してたのかな。

申し訳ない。

でもありがたいなあ。本当に嬉しかった。

明日は子どものための演劇ワークショップ。

頑張ろう。

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嫌悪しているものを、ときどき覗き見に行ってしまうような、

そういう悪い趣味が私にはある。

それをやめられたら、

少し心が清らかになるような気がする。

昔と違うのは、

嫌悪しているものに、近付かず、遠巻きに見ていられるところ。

小さな同居人と暮らし始めるまでは、

怖いものや嫌いなものを、見つめているうちに

寄って行くようなところがあった。

最近はそーゆーことをする暇がないんだね。

暇がないだけで、

性格は直っていない。

今日はものすごく忙しいのに、

ほんの一瞬だがすごく気分が悪くなるサイトに行ってしまった。

意味のない前向きさは、人を向上させない。

見栄を張り、自分も他人もごまかして生きる人生は不潔。

尊敬できない。

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あたま を なで ながら

ゲーム関係のドラマ台本書きながら、稽古して、作業して。

夜明け、起き出して本公演の台本のラスト近くを書く。

楽しい。

ああ、こんな台本を大学生くらいの時書いてみたかったなあ。

とふと思う。

大学生の時の私が今くらい書けたら、どんな台本を書いていたんだろう?

でも感性自体が磨かれていないし(今もそうなんだけど)、

まあたいしたことないか。

まあとにかく若い時みたいな

まとまりも何にも考えてない、感覚のままに書き散らす、

そんな感じの台本が書けた。

小さな同居人は、ほぼフツウの日本語を喋っている。

「プール入りたいよ」とか「みかん食べたい」「ねんねしないよ、あそぶの」など、

どんどん喋る。

ぬいぐるみに絵本を読んでやったりもする。

しかし文字はまだ読めないから文章は適当だ。

だいたい絵柄と内容は合っているから、

あらすじは追えているんだけれど。

自分で自分のことをやりたい、という他に、

人に何かしてあげたい、という気持が強いらしく、

ぬいぐるみの世話をしたり、説教したり。

犬のぬいぐるみを自分で棚から落ちそうなところに置いて、

「ダメだよ、あぶないよ」などと言ったり、

ままごとのスイカなどを持ってきて「スイカ食べて」などと言ったりする。

風呂に入ると、私の頭を洗おうとする。

シャンプーは大人用だから、幼い子どもの肌に良くない影響を与えるかもしれず、

小さな同居人に触って欲しくない。

ううう、やめてくれ、と思うが、「ありがとうね」と返すしかない。

とにかく世話をしたいし、私と同じことがしたいのだ。

夜中、寝たフリをしていると、むくっと起き上がって、

私のお腹に同居人用の小さな毛布を掛けてポンポンと叩く。

私が、小さな同居人にいつもやっていることだ。

完全に眠っているのにどうして知っているんだろう。

ひょっとして、頭を撫でながら「いい子だね。好きだよ。大好き」と呟いているのも、

聞かれてしまっているかもしれない。

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