どう なづけるか
小さな同居人がお気に入りのマスコットを集め、
保育園ごっこをするようになった。
ゾウ、カエル、ヒヨコ、ネズミの小さな人形にあててセリフを言いながら動かしている。
ねずみ「ママ~ママ~」
ゾウ「チュウちゃん泣かないで。だいじょうぶだいじょうぶ」
ねずみ「ママ~ママ~」
カエル「おむかえまだなの?まだなの?」
ゾウ「ママ来ゆよ。ママ来ゆよ」
ヒヨコ「抱っこ。抱っこちてあげる」
小さな同居人自身「だいじょうぶだよ~。だいじょうぶだよ~。ちゅうちゃん、抱っこ抱っこ。ゾウちゃんおむかえきたよ」
ゾウ「わーい」
という感じである。
でも、何故かカエルがその後ママ役になったりする。
小さな同居人は常に美味しいところを持ってゆく役である。
その場その場で赤ちゃんになって泣いたり、ママになったり、保育士さんになったりする。
淋しいのかなあ、と思う。
小さな同居人の望んでいることは、私と片時も離れずにいることなのだろうか。
私はかなり家事をさぼっているから、園に行くまでと、お迎え以降は、だいたい一緒に遊んでいる。だけど、時間が足りないのか。
すべての感情を捧げなくてはいけないような気がしてくる。
すべての時間を捧げなくてはならないような気がしてくる。
というか、捧げたくなってくる。
私が体験しているものは、愛なのだろうか。
それとも、母なのだろうか。
とりあえず、分かっているのは、
どう名づけるかには意味がないということである。
稽古場で、幽霊になった母と母を想う娘のシーンを見ていて、はっと気付いた。
死ぬってことは永遠になるってことのようでいて、
そうじゃないんだ。
自分で台本を書きながらそう思っていたのに、でも本当には分かっていなかったんだと思う。
稽古場で、役者がセリフを発しているのを聞いて、やっと分かった。
死ぬってことは、風になって、砂になって、さらさらと彼方へ飛んで行ってしまうってことなんだ。
師匠を思った。
私は何度も何度も繰りかえし、師匠と過ごした時間を再生している。
くどいほどに。
何故再生しているかといえば、
風になって飛んでいってほしくないからだ。
日常の爆風に流されて、彼方へ行って欲しくないのですがりついている。
すがりついて、無理やり再生している。
あの人は、私と過ごした時間をなぞっているだろうか。
ふと思った。
記憶をたどるにも勇気がいる。
そういう強さが、あの人には残っているだろうか。
私は強いかどうか分からないが傷つくことを恐れたくない。
だから思い出せることは全部思い出してみるタイプだ。
とりあえず。
ただし、記憶力がひどく悪いから、思い出せることはすごく少ない。
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