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2013年10月

ちゅうとはんぱ

どれも、中途半端な気がして焦りを感じる。

今日はリトミックの試験だったけれど、さんざんな出来だった。

といっても努力が足りなかったとかそういうわけではなくて、要するに慣れが絶対的に足りないのだと感じた。

音楽を生業にしている人たちと経験の点で比較すると、大人と赤ん坊くらいの開きがある。

失敗したというより、緊張し過ぎていて、譜面台の上に載っている楽譜を読み取れないくらいだった。

演奏にはそんなに困らなくても、結局こういう部分で差があるのだと激しく感じた。

午後は稽古場で演出をする。

疲れ?ストレスがたまっているためか、集中が途切れがちだった。

なんとか稽古を終え、保育園へ。

だが、欝っぽい気分が抜けず、小さな同居人に明るく接することができない。

いつもより口うるさくしてしまった気がする。

心身ともに今は余裕がない。

体調次第では、木曜日の午前中、寝て過ごそうかと思っている。

金曜日に少し休もうかと思っていたのだが、仕事で埋まってしまった。

土曜日も夕方から仕事に行かねばならない。

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だれか ひとり が 

毎日たいしたことはしていないはずなのに、とても慌しい気がする。

先日、11月の公演の現場を下見に行って、その帰りに知人が女優をやっている劇団のゲネを観にいった。

メッセージを訴える時、表現者はどのようにするべきなのか、考えさせられた。

例えば、差別に反対するというメッセージを発信する時、手法によっては差別を受けている人を傷つけるような台詞や状況を描写する場合もあるだろう。

これは、おそらく大義のためには小さな犠牲には目をつぶるという考え方に基づいたものだ。

大学を卒業したあたりから、私はずっと考え続けている。

どうしたらいいのか。

というか、私にはできないのだ。結局。

誰かが、それがたった一人でも直接傷つくと知ってしまうと、

たぶん上演できない。

だけど本当は、誰も傷つかない表現なんて、どこにもない。

生活においてもそうだ。

誰かが無邪気に笑うと、誰かが傷つく。

それが現実。

みんなで分かち合える感情なんて、滅多にない。

だからこそ、まだ片言でしか喋れない子ども同士が微笑みを交し合っているのを見る時、

あんなにも胸打たれるのだ。

赤ちゃんは虹の世界にいる妖精。

小さな同居人が虹の世界から降りてきて久しい。

そして、だんだん人間になっていく。

でも残念というよりは、人間の良さを再発見する機会となっている。

可愛らしさや優しさや素直さだけでなく、欲求の強さや、ワル賢さや、浅はかさも含めて、それは人間の生きる技術なのだと、痛感する。

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めを あけてても ゆめは みられる

二ヶ月くらい前のことを思い出した。

小さな同居人が4歳の誕生日を迎える少し前のことだったか?

「めを あけてても ゆめ が みられるんだよ」 と 夕飯の時に言い出した。

ん?白昼夢のことか?

「夢って、どういう夢?」という私の問いに直接は答えず、

「ままは おしごとで○○(小さな同居人の名)に会いたいとき、○○のゆめを みる?」と。

小さな同居人は、保育園で私に会いたい時、私の姿を思い描いているのだろうか。

思わず泣きそうになったが、

「そうだね。心の中で○○ちゃんって名前を呼んで、顔を思い浮かべることがあるよ」と話した。

「○○も」

小さな同居人は、頭の中にある広大なイメージの世界に気付き始めているようだ。

今までは何も意識せずに空想の世界に入り込んでいたが、

最近は現実と空想、世界と自分の頭の中にある世界との違いについて、少しずつ認識しはじめた。

妖精の世界から人間の世界へようこそ。

でもね、自分の頭の中の世界では、妖精のままでも構わないよ。

そこは、自由の世界だから。

ママも、自由にしているよ。ただし、たいていの時間、あなたに支配されているけれど。

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こころ に しみ が ある

自分のドロドロした部分に気付かない人間は、表現者に向かないと思う。

演出をしたり、他人の台本を読んだりする際に、つくづく感じるのだ。

自分にもそのような面があることに気付けば、表現に奥行きが出てくるのではないか。

そう考えて、指摘していた時期もある。

でも、たいてい一笑にふされるか、そんなこと考えたこともなかった、と流されるのがオチだったので、自然とやめてしまった。

気付かないほうが、表現者としては不幸でも、生きるためには幸せなのだ。

それは、彼らが、彼女たちが無意識的に選んだ結果なのかもしれない。

選択が無意識的であればあるほど、私には不潔に感じる。

しかし、それもまた、私の妬み僻みなのかもしれない。自分のドロドロした部分や嫌な部分ばかりが意識されるのは、つらいものだ。

おそらく、表現の拙さに気付かず幸せそうにしている人間が羨ましくて、こんなことを思うのだ。

そんな人生に美しい光を与えてくれた小さな同居人や保育の仕事に、心からの感謝を覚えている。

しみのある心を持っているからといって、美しい作品を作ることができない訳ではない。むしろ逆だ。

それと一緒で、歪んだ人間だからと言って、優しく振舞えない訳ではない。意識的に注意深く生活を営んでいけばいいだけのことだ。

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