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2014年7月

ただの とおりみち

東京女子医大で禁忌薬投与によって子どもが亡くなった事件のニュースを見て、

涙が止まらなくなった。

理由は薬のせいばかりではないかもしれないが、

何故医者はたくさんシグナルが出ていたのに見逃したのだろう。

本当に怖い。

医者任せではいられないなと感じる。

週末は田舎で遊んできた。

小さな同居人は巨大ジャブジャブ池のようなものがある公園で、はしゃぎ回った。

そこには繭のかたちをした巨大エアートランポリンもある。

ジャブジャブ池には噴水やら滝やらがあって、ちょっとした冒険遊びができるようになっている。

実家の庭には少し大きめのビニールプールを出し、パラソルで日陰を作った。

水遊びをしながらも、泥団子を作ったり、てんとう虫を捕まえたりと、とにかく忙しそうだった。

今日は台本と保育講師関係の仕事の締切りが重なっていて、日中は作業に追われていた。

何となくすさんだ気分でいたが、小さな同居人の成長ぶりに、救われた。

久しぶりに小さな同居人が文字を書いた。

苗字と名前を、ゆっくりと。

この子の書く文字はなんて素敵な字体なのだろう!

今まで時々書いていた鏡文字も楽しかったけれど、今の文字は正しい上に、なんて可愛らしい。

それに絵も成長した。

どれもドレスを着た女の子なのだが、ドレスがデザインされていて、着色までされている。

素晴らしい。

こういう成長を楽しむようなことを、時々ごく限られた内輪の場で口にするが、

眉をひそめたり、嫌味を言ってくる人もいる。

彼らは知らないのだろう。

子どもの成長を天真爛漫に楽しんだり、誇りに感じたりすることは、まったく恥かしいことではない。

「親なら全員そう思ってるよ」などと吐き捨てるように彼らは言う。

全員思っているならなお素晴らしいことじゃないか。

何か問題でもあるのだろうか?

だって、比較して可愛いと感じているわけじゃない。

何故、ネガティブな物言いをする必要があるのだろう。

本当にきちんと、愛を表現することができるようになれば、

この世にモンスターペアレントなんていなくなるんじゃないかと思う。

そんなことよりも、財力や学歴、仕事の業績を心の拠り所にするほうが恥かしい。

偶然なのか、それとも当然の一致というべきか、

その種の人間はたいてい他人の美醜や体型、学歴などをいつもさりげなく会話に盛り込んでくる。

おそらく気がついていないだけなのだろうけれど。

彼らは「自分にそっくりな子どもを指してよく可愛いって言うよね」などと

グロテスクなものを見るように、言ってくることもある。

なんと残忍な物言い。

私は自分の顔は好きではない。(何とか生きていけるように演劇を始めてから自意識は調整した)

一日に一度も鏡を見ない日もあるくらいだ。

でもね、自分を嫌いだからという理由で、無邪気な子どもを嫌いになるなんて、できない。

私に似ているかもしれないが、まるで別人なのだ。

子どもは素晴らしい。

愛、成長、進歩、変化、勇気、知恵、躍動……。

血がつながっているというより、

産んだというより、

小さな同居人自身が、生まれて「来た」のだと感じている。

私の胎内は、生まれて来るためのただの通り道だった。

この世界に生まれてきてくれてありがとう。

神さま、この出逢いに感謝します。

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せいかく に みきわめる

ここのところさぼっていた受験勉強に手をつける。

けれど……眠い。

英文を読んでいるだけで何故こんなに眠いのだろう。暑いからかな。

できれば明日からはニュースの記事とか刺激的な文章を読もう。

そうしたら眠くなくなるかもしれない。

ピアノを弾いていてふと思った。

すごい人のそばにいて仕事をしたり、何か教えてもらったりすると、

それだけで自分がその人と対等になった気がしてしまう。

でもそれは傲慢だ。

生まれつき特別な、才能に恵まれた人とは、絶対に対等にはなれない。

もちろん人としての権利としては同等なのだけれども、

表現という土俵に立ったらやっぱり違う。

ピアノの先生に時々生意気な口をきいてしまうのだが、(もちろん音楽以外のジャンルで)

ちょっと気が緩んでいるかもしれない。

だけど、それは才能を理由にして、努力しない、ということとは別の問題だ。

才能の多少よりも、自分の力を正確に見極めて、どのように生かすか考える能力のほうが、

結果には大きな影響を及ぼす。

加えて長期的には、感謝の気持ちをいつまでも持ち続けることが結果につながる。

数年前、どこの馬の骨とも分からぬ、大きなお腹を抱えた女を信頼してくださり、

執筆の仕事やツテを次々と紹介してくださった方々。

中には別の業界に転職なさった方もいらっしゃるが、

私は忘れない。

去年くらいまでは、幼な子を抱えて、執筆以外の仕事はできる状態ではなかったから、

本当にありがたかったのだ。

そして、私のような人間に、「人とつながる力」という大きな才能を使ってくださったことが何よりも嬉しかった。

だから今も、その方たちからの依頼は、どんな条件の仕事であれ、引き受けることにしている。

ずっとこの気持ちは持ち続けていきたい。

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ふぇあ とは なにか

愚痴。

以前、苦しんでいる知人がいて、

ある方法で助けたことがある。

私にとっては大きな損失をともなうような手段だったけれど、

友人を救いたかった。

それが全部役に立ったとは思わないが、立ち直るきっかけにはなっただろう。

知人は輝きを取り戻し、さらなる幸運が舞い込むこととなった。

損失については、仕方がないと思っている。

自分のそういう行動については諦めている。もう性格だから仕方がない。

「損をしないように行動すること=アンフェア」という考えが染み付いているのだ。

私の「フェア」に対する定義はおそらく歪んでいる。

でも最近、自信を一段と強めた知人の言動から、自己顕示の灰汁のようなものを感じ、悲しくなった。

誰しも強大な自我を抱えて生きている。

しかしそれを私にぶつけるのか……。

そうか。

無邪気な好意だけ抱き続けていたかったのだけれど。

悲しいね。

私は間違っている。

自己顕示の毒を吐けるくらいに回復したことに対して、満足するべきなのだ。

けれども気持ちがついていかない。

でもこれはずっと変わりませんよ。

あなたが幸せになることを望んでいます。

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まほう を かけられますように

もう7月。

そうそう、先月は誕生日があったのだ。

子どもを産んだらまた歳を取るのがちょっと楽しくなってきたかもしれない。

死ぬのがイヤになった分、怖さも増したけれど。

昔は、死は身近なものだった。

でも今は……死からできるだけ遠くにいなければならない。

最近、仕事の場で久しぶりに、嫌悪感というものを思い出した。

人に対して、というより、自分に対してなのかな。

好きでない人に非寛容な自分に対して。

まあそれが自分なのだよね。

なるべく表に出さないように気をつけなければ。

小さな同居人は、七夕の短冊に「まほうをかけられますように」と書いていた。

「アナと雪の女王」を観にいってから、ずっと魔法魔法だ。

ああいう物語を幼い子どもが見るのってどうなのだろう?

まさか、ディズニーがあそこまで男性不在の話を作るとは思っていなかった。

ストーリー展開はあれで良いとしても、もう少し男性に敬意を払った物語にするべきではないのか?

と、なんとなく心配になってしまう。

でも、女の子たちがエルサに共感するのは当然だ。

この国が、女の子にとって生きにくい場所であるのは明白だ。

変わるといいのだが。

変えなければ。

物語を書くことで、少しだけその手伝いができるだろうか。

風呂に入っている時、小さな同居人に「まほうを かけたことある?」と訊かれた。

何故か咄嗟に「あるよ」と答えてしまった。

「いつ?」

「お話を書く時。魔法で面白いお話を書くの」

しどろもどろに言いながら、そうかもしれない、という気分になった。

まほうがかけられますように。

面白くて、この国を変えられるような、そんな物語をうむことができますように。

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