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2014年12月

くりすます

昨日、クリスマスイブは、猛烈に調子悪かった。

身体じゅう痛くて閉口。

秋に身体を壊す直前の症状と似ていたので、かなり動揺した。

おまけに早朝からとても理不尽なメールが何通も来て不快だった。

私とその人は遠くかけ離れた人間だと思うのだが、何故か似たもの同士だとその人に思われているらしいのだ。

すごく困った。

でも誤解されるようなことを私がしたのかもしれない。

何も覚えがないけれど、そうなのかもしれない。

私は似たもの同士ではありません、共感できない、と一応説明付きで返信したが、

ますます不快な内容になっていった。

もうどうしようもないから返信をやめた。

本当にごめんなさい。

傷つけるのは嫌なのですが、私は自分と他人の区別がつかなくなっている人は苦手なんです。

イブは小さな同居人も私もお腹の調子が良くなかったので、ケーキは食べなかった。

でも一緒にオセロをしたり、トランプをしたりしてのんびり過ごしてとてもほのぼのとしたイブだったと思う。

クリスマス当日の朝は、小さな同居人がツリーのところにプレゼントを発見して大喜び。

青いドレスを一着と、カラー輪ゴムでアクセサリーを作れるというリリアン編みのようなキットと、アナと雪の女王のカレンダー。

日中は仕事に追われた。

ゲーム執筆の仕事は、はい、この作業今日中にやってください、とかが時々ある。

閉口。

前日に言ってくれるとありがたいんだけど。

仕事自体は手早く処理できても、その時間を確保するのが大変だ。

結局仕事を始めてしまうと、息抜きなんてなかなかできない。

ママ友たちは、子どもを預けて飲みに行く人とか多いけれど、

本当に羨ましいな。

友だちと飲みに行くことを正当化できるのが羨ましい。

それって自己肯定力みたいなのが必要だよね。

「行きたいから行く」とか、「仕事で疲れたから」とか。

でも根底には「自分は頑張った」とか

「息抜きが許されるくらいの自分には価値がある」っていう意識があるんだろうなと思う。

息抜きは、本当は絶対に必要だって、私も思っているんだけれど、

母親から植え付けられた罪悪感みたいのが抜けない。

子どもを産んだら、自分のやりたいことをやったらいけない、という強迫観念。

だから自分の仕事のキャリアに関係のあることしかできなくなってしまっている。

秋に病気になったのも、なるべくしてなったとも言える。

自分を高めようと努力しても、結局自己肯定力は高まらないんだよね。

高めよう、じゃなくて、楽しいことをやったほうがいい。

息抜きしないと食べられなくなって病気になる。

また繰り返しにならないように、生活をもっと見直そう。

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かんじょうは おきかえられない

作品を好きだ、と言われるのには抵抗を感じないけれど、

人に「作家として好き」とか「人間として好き」とか「女性として好き」とか言われるのが

「好きではない」。

何故かといえば、

作品と私は別物なんだけれど、

作品を作るのはまぎれもない私自身であり、

その私自身は、作家として作っているわけではない。

ただの、私、として作品世界を作っているのだ。

それは、「作家」とか「人間」とか「女性」とか、境界線に切り分けられない「私」なのである。

きわめて曖昧な、定義づけできない存在のまま、創作活動をおこなっていきたいのだ。

同じように。

一緒に作品を作る仲間のことも、分別したくないと思っている。

作品を通して触れ合うだけなのだとしても、

打ち合わせや現場で存在するその人、丸ごとに対して感情を持ちたい。

だから私は気持ちを伝えるとき、あえて「~として」はつけない。

でも実際は、

感情をもやもやと空気のまま持っておきたいから、

言葉にして伝えたことは数えるほどしかないかなあ。

好きとか嫌いって言葉は、代数に近いんじゃないかなと思っている。

ほとんどの感情は、ピタリとはあてはまらないけれど、ある程度の法則性を導き出すには必要な言葉。

感情は言葉に置き換えずに、モヤモヤとそのまんま保存しておけば、一番それが正確なんだと思う。

もちろんどうしても必要な場合もあるけれど。

私と小さな同居人の関係には、

空気、言葉、どちらも必要だ。

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けっか

先週、大学病院で血液、MRIの再検査の結果を聞いた。

血液検査は甲状腺、免疫関係も含めて異常なし。

MRIの結果は、10月の末に見られたごく小さな怪しい影(炎症)が消えたとのこと。

11月の入院治療後、複視、めまい、自律神経系の不調などがほとんどすべて改善されたので、おそらく完治だろうと言われた。

ほんとうによかった。

ただ、今回何故炎症が起きたのか、理由は分からないので、今後も経過を観察する必要があるとのこと。

支えてくれたすべての人、私に希望を与えてくれたすべてのものに感謝する。

今回は病んでしまった場所が場所だけに、

11月の初旬に症状が回復して以降も、

自分がこれからどうなってしまうのだろうと不安で仕方なかった。

今回不安から気をそらせるために効果があったこと。

・読書(児童文学やカズオ・イシグロなど)

・ピアノを弾く

・聴講(近くの大学にもぐりで講義を聴きに行き、先生とメールのやりとりをした)

・新しい人間関係(入院中に知り合った患者仲間と電話やメールで交流した)

・友人と観劇

以上は不安をそらせるために、という明確な目的があって実践したものばかりではない。

読書とピアノは意識的だけれど、三番目の聴講は偶然のなりゆきで始めたものだ。

しかし一番効果があったことも事実である。

法が存在する意義や法解釈を日常的な事例を通して説明してくださる講義は刺激的だったし、

疑問を解き明かしてくれる先生からのメールも非常に興味深かった。

一人の卒業生にしか過ぎない私などに対して

丁寧に答えてくださった先生に深い感謝の念を覚えずにいられない。

先週末くらいから少しずつ仕事に復帰している。

今後はほとんど講義に行けなくなってしまうだろう。

とても残念……。

1月2月とまたゲームの脚本を執筆することになるかもしれない。

秋から冬にかけてほとんど休職していたから引き受けようかと思っている。

生活は大丈夫だけれど、このままだと今年の貯金ノルマが達成できない。

自分の学費ももっと必要だし。

とにかく、

今回の病を通して自分がストレスに非常に弱い人間だと痛いほど分かったので、

仕事に熱中しすぎず、息抜きをたくさん入れるつもりだ。

自分では仕事になんぞ熱中しているつもりは全くないし

むしろサボリ魔だと思っているけれど、

さらにもっとサボるし、自分のための楽しみを大切にしていこうと思う。

でも実際ゲームの執筆が入るとどうなるかなあ。

心配だ。

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